(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 13 August 2006

体制の中の反骨精神

佐賀人の勉学好き、といわれる。好きなどといった悠長なものでなく、異常な熱っぽさがこの県のひとびとを幕末から昭和にかけて駆り立ててきた。

佐賀県立図書館の福岡博氏が文部省資料のなかからかつてみつけられた古い統計によると、文部省直轄学校(国立の大学や高専)在学生の出身県別表というものがあり、それによれば大正12年度は佐賀県が全国第一である。入学試験の難しい学校に入る率が全国第一ということなのである。第二位はいわゆる長州の山口県であった。

そういうこの県の際だった傾斜を作り上げたのは、やはり鍋島閑叟であり、閑叟が独裁した幕末の佐賀藩と言うほかない。
閑叟の佐賀藩は他の藩をは較べものにならぬほどの近代的な教育行政と機関を持っていた。この仕組みについては、当時の佐賀藩の若い藩士であった大隈重信の談話速記の一部を借りると、
 予が郷里たる佐賀藩には弘道館という一大藩校があって、その生徒を内生・外生の二校舎にわかち、今の小中学の如く一定の課程を設けて厳重にこれを督責した。藩士の師弟にして6−7歳になればみな外生として小学に入らしめ、16−17歳に至れば中学に進んで内生となり、25−26歳に至って卒業せしめる制度である。もしその適齢になっても学業を成就することができない者は、その罰として家禄の十分の八を控除し、かつ藩人に成ることを許さぬ法であった。

これほどすさまじい制度はおそらく世界にもないであろう。落第生に対して先祖以来の家禄の八割を召し上げてしまうというのである。さらに藩の役職にもつけぬというのである。これがたかだ落第生に対する罰であり、これから推してもこの藩がいかに一藩を欧米水準に引き上げようとすることに狂気の熱情を持っていたかがわかるであろう。

この佐賀藩のすさまじい鞭撻は一藩の利害から出たものではなくその強烈な日本防衛意識から出たものであり、その点で悲壮である。なぜならば佐賀藩は幕府の初期以来長崎警備を幕府から委任されており、それが、幕末における欧米列強の日本圧迫の時期において任務が重大化し、長崎砲台を近代要塞化せざるをえなくなり、近代要塞化するためには藩そのものを近代化せざるを得ず、それやこれやで佐賀藩がになわされてしまっている日本的使命のなかからこういう結果が出てきているのである。

当時、日本のいわゆる三百諸藩というのはねむっているのも同然であった。薩長土の志士は京で政論をたたかわせ、その他の諸藩の藩主も藩士も江戸泰平のころの延長で茶飲みばなしに明け暮れていたし、大阪の町人は商利の追求にのみに日夜をすごし、諸国の百姓は上古以来の姿で土を掘り返していたときに、ひとり佐賀藩のみが覚醒し藩士の師弟たちは発狂者が出るほどに勉強させられ、領内の百姓は艦艇や千門以上の火砲をつくるための重税にあえぎつつ草も生えぬといわれるほどの苛烈な労働生活を強いられていた。明治の日本は、こういう佐賀人の血汗の上に多くの基礎を置いていることを思うべきである。
佐賀人は軍人になるものが多かったというのは周知のことだが、他の分野に行った者で目立って多いのは司法官と会計検査院であるという。そういえば明治日本の司法の基礎を定めたのは佐賀藩出身の江藤新平であり、江藤はのち佐賀の乱を起こし、自分の定めた刑法によって死ぬ。

さらに元会計検査院長の山田義見も佐賀県人であり、現在の佐賀県知事の池田直氏も会計検査院事務総長であった。汚職を嫌い、いささかの歪曲もゆるさぬという佐賀人の強烈な正義意識、非政治性は結局は葉隠れの威風かもしれないが、その体質が選ばせる分野はやはりそういうところにあるのかと思い、興味深かった。

汚職どころかえこひいきですら秩序の敵であるということを、この秩序好きの精神風土をもったこの県の人々は風土として骨髄にしみこませているのであろう。そのため佐賀人は閥をつくることをしない。

閥をつくらぬという硬骨さでは土佐人も似ているが、土佐人の硬骨はつねに政治化し、たとえばいったんは政府内に入ってもやがては反政府運動を起こし、維新後も自由民権運動から公徳秋水にいたるまでの反体制運動かも続出させてしまうが、佐賀人の硬骨と反骨はつねに体制内にある。体制内でのうるさ型であり、検断者であり、その点で司法官や会計検査院にむくのであろう。

司馬遼太郎氏著『 歴史を紀行する』をmatu5077様が『司馬遼太郎のみた世界』の中でまとめられた文章より引用させていただきました。

Last Update 2002/07/02(Tue)

Copyright(C) 2001-2007,幕末紀行人 All Rights Reserved.