『函館』幕末番外編です。
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Last Updated: 13 August 2006
■猿田彦塚の碑
昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていました。猿田彦塚は、文化14年(1817年)、一本木付近に建立され、「天保九年御巡見要用録」という記録書には、箱館村と亀田村との境界標であったと記されています。■高田屋嘉兵衛銅像
嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のときに函館に渡りました。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、函館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残しました。さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名です。■高田屋屋敷跡
箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではありません。高田屋の全盛は、寛政13(1801)年に嘉兵衛のあとをついだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃です。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていました。■石川啄木一族の墓
函館には石川啄木の墓があります。啄木が函館に住んでいたのは数ヶ月だそうですが、函館をこよなく愛し、「死ぬなら函館で」と言うほどだったとか。