津和野です。赤褐色の屋根が独特ですが、美しく風情があり、ひとの心を癒してくれそうです。
慶応2年(1866年)、幕府の第二次長州討伐いわゆる四境戦争で、大村益次郎が兵およそ700を率いて石州口を目指し、この地を通ります。
津和野藩は戦わず長州軍を通過させます。
Last Updated: 7 August 2006
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■多胡家表門(左)と大岡家老門(右)
■森鴎外旧宅
■西周(にし あまね)旧宅(左)と津和野藩校養老館(右)
■天守台跡
津和野城跡 津和野城跡を目掛け、道なりに歩きました。当時を思わせる石垣が今も残っています。
津和野城は、鎌倉時代に能登からこの地に移動してきた吉見氏によって築城されたものです。
吉見氏は源範頼の孫為頼を祖とする源氏一族で、名門の家系です。武蔵国吉見荘を領していたため吉見と称し、鎌倉前期に能登へ移動し、元寇への防衛に備えるために西国の地石見へ移動させられた関東武士団たちの一族であったといわれています。
津和野を通過したあとの話、以下、
『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。
いよいよ、大村軍が高津川にさしかかった時である。
「橋がない!」 敵兵を前に長州兵は前進をためらった。益次郎は一喝した。兵隊たちはあわてて飛び込み、村医者上がりの司令官に癇癪を起こしながら、がむしゃらに戦い、大勝利をおさめた。そしてもどってくると、そこには応急の橋が架かっている。
益次郎はケロリとして言った。
「私に腹でもたてれば勇気も出よう。だが帰りは疲れていようから、橋を架けておいたのです」
これは緒戦における益次郎を伝えるエピソードの一つである。
この戦いを通じて、村医者上がりの司令官の見せた用兵と戦術の巧みさは、幕軍のどの武将よりきわだち、対照的であったと言われる。
益次郎は、ここで一つの歴史的信念を確立する。
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