高杉晋作所縁の地、馬関(下関)です。この地は晋作が27歳と7ヶ月という短い生涯を閉じる地となります。
司馬遼太郎氏の
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』に、
下関は、正しくは赤間関といった。しゃれて赤馬関とも書き、転じて儒者好みに馬関とよばれたのが、この港町のよび名になった。
とあります。
この町の海岸は幕末では海峡を漁場とする一本釣りの漁師の家がならび、魚が新鮮なために料理屋が多く(いまは旅館しかないが)、長州をはじめ諸国の志士で下関にやってくる者はかならずこの阿弥陀寺の魚屋の座敷を借りて酒を飲み、会合した。そのあとは稲荷町や裏町へ出かけて行って妓を買う。この点、京の祇園以上に彼らにとって縁の深い町だが、いまは下関のさびれとともにさびれている。
『歴史を紀行する』維新の起爆力・長州の遺恨、より。
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Last Updated: 11 March 2007
厳島神社にある大太鼓(直径1.1m、重量390Kg)です。この大太鼓は、本ページ最下段に写真掲載しております小倉城のやぐらに吊るされていたものですが、慶応2年(1866)の「小倉戦争」で幕府軍に勝利した高杉晋作が持ち帰り、戦勝を記念して当神社に奉納したものだそうです。
■日和山公園の高杉晋作陶像
以前は銅像だったらしいのですが、第二次世界大戦の金属出陣で失われ、現在は備前焼の陶像で再建されています。
こういう話は結構ありますね、福岡藩平野国臣の取材を現在計画中ですが、福岡市西公園近くにある平野の銅像も
前大戦で武器や砲丸にするために、金属出陣で供出させられ、戦後の昭和39年に再建されています。
日和山公園の高杉晋作陶像は高台にあり、こんな階段(たしか200段以上あったと思います)を登りました。
結構きつい階段でした。
■桜山神社 七卿史跡
維新回天発祥地 桜山招魂場を視察
文久三年(1863年)8月18日の政変により三条実美卿等七卿は京都妙法院をあとに西下長州に向います。
『聞いておそろし 見ていやらしい 添うてうれしい奇兵隊』 と歌われました。奇兵隊結成の地(白石正一郎邸跡)
『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』に、白石正一郎について以下の記述があります。
幕末、長州志士の活動資金は、ほとんどこの白石正一郎が出したといっていい。諸藩の脱藩の士を泊めて小遣いをあたえたのも白石であった。坂本や中岡をはじめ、幕末の有名無名の士でこの白石の厄介にならなかった者はないといっていい。
白石は、伊藤助太夫と同様、下関の海運業者であった。その富はこの港市第一といわれていたが、維新前後、この革命道楽のためにほとんど家産を蕩尽した。
とくにかれの家産をかたむけたのは、高杉晋作が奇兵隊をつくったとき、その資金を白石に出させたことが大きいであろう。白石は高杉に惚れこんでいたし、白石自身、国学者であり攘夷主義者であったから、むしろすすんで金蔵をかけて金銀を出した。とめどなく金銀が流れ出た。
高杉はこの町人を長州藩の回天事業における最大の功労者のひとりだとみていたが、白石の不幸は、維新前に高杉が死んだことであった。
生き残りの長州志士は東京へゆき、どうみても三流の人物でしかないという連中まで廟堂に列したが、落魄した白石をかえりみる者がなかった。白石のほうも、いまさら勘定書を出すような人物ではなかったらしい。
■高杉東行(晋作)療養之地
慶応2年(1866)の第二次長州征伐中に肺結核のためにたおれた晋作は、戦列を離れこの地で病を癒します。
■高杉晋作終焉の地
やがて新地の豪商林算九郎邸の離屋に病床を移し、倒幕の悲願達成を目前にした慶応3年(1867)4月14日、この地に27歳と7ヶ月の波乱に満ちた生涯を閉じました。
関門大橋 本州側壇ノ浦(SA)より撮影
この海峡で義経が平家の艦隊を全滅させ、長州藩が四カ国艦隊と戦い、幕長海戦のときには竜馬が高杉の艦隊に協力してユニオン号をもって幕府艦隊を牽制した。
司馬遼太郎氏の
『歴史を紀行する』より。
晋作の生涯を思いながら、この馬関の海峡を見た。周防灘と響灘の二つの潮がぶつかり合う潮流の激しさは当時のままであろう。
晋作も新しい時代を予感しながらこの海峡をみていたのでしょうか。
下関より関門海峡を渡り、北九州に来ました。小倉城です。
慶応2年6月、幕長戦争が開始。戦争は芸州口、石州口、大島口、そして九州小倉口という国境でおこなわれたので、これらの戦 いをまとめて、「四境戦争」ともいいます。
小倉城には幕府軍2万が配置され、関門海峡を渡って下関に攻め込む勢いを見せました。この方面の長州の指揮をまかされたの
が、高杉晋作でした。因みに石州口は村田蔵六(大村益次郎)です。
■第十二師団指令部跡
(小倉城内 板碑の文面より)
「旧第十二師団司令部正門」
明治八年に歩兵第十四連隊が小倉に設置された。十八年には小倉城松の丸跡に既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊とを管 轄する歩兵第十二旅団本部が開設された。ついで、二十九年、西部都督部が歩兵第十二旅団本部跡に開庁した。三十一年、これら の隊と下関要塞砲兵連隊、並びに北方に創設された各隊を以て第十二師団が生まれ、その指令部庁舎が本丸跡に建てられた。この 煉瓦づくりの正門は当時のもので、同三十二年六月から約三年間第十二師団の軍医部長を努めた森鴎外もこの門を通って登庁
した。なお司令部は軍縮により大正十四年久留米に移転することになる。
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