宇野千代先生似顔絵 Special Thanks!:bAbycAt

宇野千代先生の功績

−以下、宇野千代生家を訪れた際に頂いたパンフレットより引用−

宇野千代先生は、明治30年に山口県岩国市川西町に生まれました。
大正3年3月、岩国高等女学校を卒業の後、 川下村小学校の代用教員になられましたが、文学に興味を抱き、上京されました。

東京においては出版社の事務、家庭教師、ウエイトレスなどの職をしながら、懸賞小説に投稿、大正10年1月に時事新報の懸賞短編小説に応募した「脂粉の顔」が一等に当選したことで自信を深められ、作家となる決心を固められました。

その後、読売新聞、中央公論、文芸春秋、婦人公論などに次々と作品を発表され、昭和33年「おはん」により、昭和46年「幸福」その他により女流文学者賞を受賞、続いて昭和47年には、第28回芸術院賞を受賞、翌昭和48年には、日本芸術院会員に任命されるなど、女流作家としての地位を確固たるものにされるとともに、昭和49年4月には、勲三等瑞宝章を受章されました。
また、昭和48年には、川西の生家を昔のままに修復し、そして執筆のために来岩し、郷里岩国を題材とした「チェリーは死んだ」、「水西書院の娘」などの作品で、岩国の静かな城下町のたたずまいを広く紹介されました。

昭和57年2月から1年半にわたり毎日新聞に連載された大河自伝小説「生きて行く私」は、刊行されると同時に大ベストセラーとなり、爆発的な宇野千代ブームを呼び起こしました。

先生は、98歳で逝去されるまで、年齢を感じさせない、みずみずしい文体で意欲的な執筆活動を続けられ、文学の発展向上及び、後進の育成に努められるなど、日本の芸術文化の振興に大きく寄与されました。その功績が認められ、平成2年には、名誉ある文化功労賞者に選考されました。

近代日本を代表する女流作家である宇野千代先生は、その岩国を思う郷土愛は「故郷すなわち私である」とまで語り、岩国市民は、ひとしく敬愛し誇りとし、敬愛と感謝の意を捧げ、平成2年9月11日に岩国市名誉市民の称号を宇野千代先生に贈っています。

平成8年6月10日に生涯を閉じられましたが、同日、先生の長年にわたる功績を讃え、勲二等瑞宝章が贈られました。

和暦年
年齢
宇野千代 / 主な出来事
明治30年
 0歳
11月28日、山口県玖珂郡横山村(現岩国市川西町)に宇野俊次、トモの長女として生まれる。
明治32年
 2歳
母トモ死去。翌年5月、父は再婚。
明治43年
13歳
3月、岩国尋常小学校を卒業し、岩国高等女学校に入学。
明治44年
14歳
藤村亮一のもとに嫁入りするが10日で戻る。
大正 2年
16歳
父俊次が病没。文学に興味を持ち始め、変名で「女子文壇」などの雑誌に投稿。
大正 3年
17歳
女学校を卒業、川下村小学校の代用教員となる。
大正 4年
18歳
同人誌「海鳥」を発行するが三号で廃刊。韓国に渡る。
大正 5年
19歳
京城から帰国。
大正 6年
20歳
上京。雑誌社の事務、家庭教師などの職を転々とする。
大正 8年
22歳
藤村忠と結婚。翌年、札幌へ移住。
大正10年
24歳
「時事新報」の懸賞短編小説に応募した処女作「脂粉の顔」が一等に当選し、賞金200円を得る。
大正11年
25歳
札幌より上京。尾崎士郎と出会う。
大正12年
26歳
短編集「脂粉の顔」を改造社から処女出版。
大正13年
27歳
尾崎士郎と結婚。作家としての地位を固める。
昭和 元年
29歳
3月から半年間、尾崎とともに山口県新港に滞在。
昭和 4年
32歳
名作短編集「新選宇野千代集」を改造社から刊行。
昭和 5年
33歳
東郷青児と同棲を始める。「罌栗はなぜ紅い」を中央公論社から刊行。
昭和 6年
34歳
豪華限定本「大人の絵本」を白水社から刊行。
昭和10年
38歳
東郷青児の話を聞き書きした「色ざんげ」を中央公論社から刊行。
昭和11年
39歳
スタイル社を設立し、雑誌「スタイル」を発行。
昭和12年
40歳
北原武夫を急接近。千駄ヶ谷に転居する。
昭和13年
41歳
スタイル社から、文芸誌「文體」を創刊。
昭和14年
42歳
北原と結婚。小石川に新居を構える。
昭和16年
44歳
文體社を設立し、「文體」を再刊。太平洋戦争が勃発。
昭和18年
46歳
北原がジャワ島から帰還。
昭和19年
47歳
スタイル社を解散し、熱海へ疎開。昭和20年終戦。
昭和21年
 
48歳
 
北原を社長、千代を副社長としてスタイル社を再興。「スタイル」を復刊、記録的な売上を見せた。翌年に「文體」を復刊。「おはん」を連載する。銀座みゆき通りの社屋に移住。
昭和24年
52歳
「宇野千代きもの研究所」を設立。
昭和25年
53歳
スタイル社の一階に「スタイルの店」を開店。「中央公論」で「おはん」を分載。
昭和26年
54歳
「毎日新聞」に「巴里通信」を寄稿。
昭和27年
55歳
スタイル社の脱税が明るみに。苦境に陥る。
昭和30年
58歳
青山南町に転居する。
昭和32年
60歳
中央公論社から「おはん」を刊行。第五回野間文芸賞を受賞。
昭和33年
61歳
第九回女流文学賞を受賞。
昭和34年
62歳
スタイル社倒産。
昭和35年
63歳
「女の日記」を講談社から刊行。
昭和36年
64歳
ドナルド・キーン訳「おはん」が英米で刊行される。
昭和39年
67歳
尾崎士郎病没。「天風会」に入会。北原武夫と離婚。
昭和41年
69歳
「刺す」を新潮社から刊行。
昭和42年
70歳
「株式会社宇野千代」を設立。「この白粉入れ」を「新潮」から発表。
昭和47年
75歳
第28回芸術院賞を受賞。「或る一人の女の話」「幸福」を文芸春秋から、「私の文学的回想記」を中央公論社から刊行。
昭和48年
76歳
北原武夫が病没。
昭和49年
77歳
郷里岩国の生家の復元が完成。勲三等瑞宝章を受ける。
昭和50年
78歳
「薄墨の桜」を新潮社から、「八重山の雪」を文芸春秋から刊行。「文学界」にて中里恒子との「往復書簡」を連載。
昭和52年
80歳
中央公論社から「宇野千代全集」の刊行始まる。
昭和53年
81歳
東郷青児急逝。
昭和55年
83歳
「青山二郎の話」を中央公論社から刊行。
昭和57年
85歳
第30回菊池寛賞を受賞。
昭和58年
86歳
「生きて行く私」を毎日新聞社から刊行、ベストセラーとなる。
平成 2年
93歳
岩国名誉市民となる。文化功労者として顕彰される。
平成 4年
95歳
日本橋高島屋で「宇野千代展」開催。
平成 8年
 
98歳
 
山梨県立文学館で「宇野千代の世界展」開催。6月10日、永眠。平成9年6月、岩国の教蓮寺に納骨。平成10年生誕百年「宇野千代の世界展」開催。三越美術館(新宿)にて。

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