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Last Updated: 25 April 2010

福澤諭吉(ふくざわゆきち)天保5年12月12日(1835)~ 明治34年2月3日(1901)

中津藩士、啓蒙思想家、適塾第10代塾頭、慶應義塾創設者

蘭学の泉 ここに湧く ※現地案内板より

豊前中津藩は、江戸中期から明治にかけて多くの蘭学者を輩出した。その背景には藩をあげて蘭学研究に大きな支援を与えたことにある。福沢諭吉の誕生も、この伝統と土壌があったためである。

中津駅 福沢諭吉像

中津駅 福沢諭吉像

中津駅 福沢諭吉像

中津駅 福沢諭吉像

福沢諭吉旧宅 ※現地案内板より

福沢先生1歳と6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836)秋、母子六人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。最初の住んだ家は残っていませんが、この宅跡にその家がありました。今残されている旧居は、後年に移り住んだものです。

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅 しらみ取りの話 ※現地案内板より

少年諭吉の母お順さんはまことに心のやさしい情ふかい方でありました。このころ中津の下辺に家は大へん貧しくいつもボロボロの着物を着て髪の毛はボウボウとなった知恵おくれの女の子がいました。母はその娘を見ると毎度のように庭に呼び入れて莚(むしろ)の上に坐らせて頭の虱を取ってやるのでした。私は母に命ぜられてその虱を石の上で五十匹、多い日は百匹もつぶすのです。それがすむと母はこの娘に虱をとらせて貰ったお礼にと握り飯を作ってやるのです。娘はおいしそうに食べてうれしそうに帰って行くのでした。

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅 刺客に狙われた話 ※現地案内板より

明治3年10月、母と姪(いち・兄三之助の長女)を迎えに中津に帰った時の事です。中津の若い藩士のなかには、諭吉を西洋かぶれと嫌い暗殺しようと狙う者がいました。その動きを察知した服部五郎兵衛(福沢家の親戚)は夜福沢家を訪問し、いつまでも酒を飲みながら夜中の1時を過ぎても話し込んでいるので、諭吉が寝入るのを狙っていた刺客はその機会を逃し、諭吉は命拾いをしました。

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉の著書 『学問のすゝめ』 より

天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

福沢諭吉旧宅

土蔵の話 ※現地案内板より

諭吉が少年の頃、自分で手直しをし長崎へ遊学(西暦1854年)をする19才ごろまで、米をついたり2階の窓辺で学問を続けた土蔵です。

福沢諭吉旧宅 土蔵

福沢諭吉旧宅 土蔵

福沢公園の説明 ※現地案内板より

中津市留守居町にあるこの旧居は明治の初め福沢諭吉先生の家族が東京に転居した後、渡辺氏(親戚)が住んでいました。次いで旧藩主奥平家の所有となり明治43年同家より市に寄付され、その後当市が管理しています。本公園の面積は5200平米で昭和46年本旧居ならびに前側の宅跡が国史跡文化財の指定を受けました。

福沢諭吉旧宅 胸像

福沢諭吉旧宅 胸像

福沢諭吉旧宅 胸像

福沢諭吉旧宅 胸像

咸臨丸 ※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

咸臨丸(かんりんまる)とは、幕末期に江戸幕府が保有していた初期軍艦。木造で3本のマストを持つ蒸気船である。洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた)。幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られる。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。旧名(オランダ語名)、Japan(ヤパン号。ヤッパン号、ヤーパン号とも)。 "咸臨"とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

安政7年(1860)、福澤諭吉は勝海舟・ジョン万次郎らと、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団一行に随行し、咸臨丸で太平洋を横断しました。

福沢記念館 福沢諭吉胸像

福沢記念館 福沢諭吉胸像

福沢記念館 咸臨丸模型

福沢記念館 咸臨丸模型

白石照山先生と福沢諭吉 ※現地案内板より

福沢諭吉は十四才のころから照山の私塾晩香堂に学び、初めて学問の手ほどきを受けました。十九才のとき、長崎に出て蘭学を修め、その後大坂の適塾に入りました。安政三年、兄三之助の死後、家計の後始末をしたあと、再び上坂し、適塾での勉強を続ける決意をして父の蔵書を売ろうとしました。しかし、中津では買う人がなく、当時臼杵藩におられた照山先生の仲介で臼杵藩が十五両で買い上げました。お陰で諭吉は中津を出て適塾での勉強を続けることが出来たのです。このことがあってから照山先生と福沢諭吉との師弟の情は深くなり、照山先生が亡くなるまで続きました。

白石照山記念碑

白石照山記念碑