明治時代の日朝関係について取り上げてみたいと思います。

明治6年(1873年)『征韓論』

明治元年以来、新政府は朝鮮に長年の歳月をかけ国交回復呼びかけていましたが、朝鮮側は傲慢な態度でこれに応じず、国内の世論は激高していました。桐野利秋や別府晋介など西郷門下の陸軍幹部等は軍事決行を強く唱えます。西郷はこれらの強硬論を抑えて、『先ずは特命全権大使を送り、朝鮮政府とよく話し合い、それでも応じなければ、出兵もやむを得ず』と主張しています。自分がその大使になり、単身で朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和睦を求めようと提案したのです。 西郷の考えは、『朝鮮と手を結べば、いずれ清国とも結ばれる日が来る。そうすれば、国内の不平派も、敵は朝鮮や清国ではなく、東アジアを狙うロシアや欧米諸国であることが分かるだろう』という島津斉彬から引き継いだ遠大な防衛構想に因ります。

朝鮮の某歴史学者は、『私は西郷を征韓論の親玉のように誤解していた。もし遣韓大使が実現して、興宣大院君(フンソンデウォングン:26代国王・高宗の父)と二人で腹を割って話し合っていたら、その後の日朝関係は違ったものになっていたであろう。惜しいことをした。』と語ったと云われます。 西郷のいう日朝清連合での欧米諸国への対抗が実現していたか、あるいは、大久保のいう通り、朝鮮との戦争に端を発しのロシアや欧米諸国の干渉を招いて亡国に至ったか、知る由もありませんが、司馬遼太郎氏は次のように語っています。
『征韓・内治両派の巨魁は、それぞれの意見を通すために死を賭していた。がこれほど小説になりにくい事件もなかろう、小説になるために必要な人間現象、たとえば私利や私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほどに双方の巨魁になかった。意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。』

西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない。現明治政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが良い。これは西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを前提として論を展開しています。しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと言っており、戦争が前提の反対意見に対し納得がいくはずがありません。西郷と大久保は大論戦の末、結局西郷の主張が通り、西郷を特命全権大使として派遣することが正式決定されました。ところが岩倉の謀略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいます。岩倉は廟議で決定された事実を天皇に奏上せず、自分の個人的意見を天皇に奏上したのです。

征韓論は潰されてしまったのですが、以外にも(西郷が征韓論に敗れ下野し、その後西南戦争が起こるのは明治10年(1877年)ですが、その前に起きているのです)直後に朝鮮への直接的な侵略が始まります。明治八年(1875年)、日本が軍艦雲揚(艦長:井上良馨)が朝鮮の江華島に進入(遼東半島に向かう途中、江華島にたち寄り水をほしいと申しでたということになっている)したところ、突然砲台から発砲してきたので、しかたなくこれと応戦し砲台を破壊しこれを占領(江華島事件)。この事件を口実に日本は軍艦と兵士を送り朝鮮に開国させ、『日朝修好条規』をおしつけました。その内容は、非常に不平等な内容でした。不平等条約をいいことに、日本はやりたい放題です。農民たちの反感は無策な朝鮮政府と日本に向けられ、1894年に武装蜂起して政府に改革を迫った甲午農民運動などが起こり、これに手を焼いた朝鮮政府は清国に援軍を求めますが、これを機に日本も大軍を朝鮮半島に送りこみ(朝鮮への出兵を正当化するために『王宮占領事件』を引き起こす)結果清国との間で日清戦争が勃発します。更に日本は翌95年に閔妃明星皇后を暗殺するなどし日本に都合の良い政府を作り、ますます侵略を強めていきました。その後日本に敗れた清国に代わって南下するロシアと、それを阻止しようとする日本の間に緊張が高まり、やがて明治37年(1904年)には日露戦争が勃発するのです。

韓国併合

日露戦争を始めるとすぐに日本は朝鮮(当時大韓帝国)に大軍を送り、日本軍が大韓帝国内で自由に行動できることも認めさせました。ポーツマス条約調印にてロシアに勝利した明治38年(1905年)には韓国から外交権を完全に奪い、翌年には統監府を置いて、伊藤博文が初代統監として内政にも干渉しました。これに抗議して大韓帝国皇帝はハーグ万国平和会議に使節を送り参加国に訴えましたが、植民地政策を進めることで日本と同じ立場の欧米の参加国はこれを取り上げませんでした。国際的にも孤立した中で、明治40年(1907年)大韓帝国は内政・立法・司法の全てを奪われ、軍隊も解散させられて日本の軍隊・警察による民衆の押さえつけが始まりました。こうした中で大韓帝国の愛国者である安重根(アン・ジュングン)は、明治42年(1909年)伊藤博文をハルビン駅でブローニング社製の自動拳銃(7連発)を用い、うち6発を発射し射殺しました。安重根はその場で逮捕され、旅順地方法院(日本の法廷)で死刑判決を受けた後、明治43年(1910年)3月26日旅順監獄で死刑執行されます。

日本では伊藤博文を暗殺した凶徒として知られている安重根は、一般の韓国人にとって独立運動の義士、英雄です。

安重根義士記念館
住所   :ソウル市 中区 南大門路5街 471
電話   :02-753-5033
入館料  :500ウォン
開館時間 :09:00-18:00
休館日  :月曜日

明治43年(1910年)、日本は韓国政府に『日韓併合条約』を結ばせ、朝鮮総督府を設けて日本敗戦(1945年8月15日)までの35年間にわたって朝鮮を日本の植民地としました。

その後
1945年8月15日は日本が第二次世界大戦に敗戦した日です。同時にこの日は日本の支配と闘ってきた朝鮮の民衆が解放された日でもあります。
ところが、朝鮮はアメリカ・旧ソ連によって北緯38度 線を境として北と南に分けて占領されてしまいます。1948年には旧ソ連軍が占領した北部では、金日成(キム・イルソン)を首相とする社会主義の朝鮮民主主義人民共和国、米軍が占領した南部では、李承晩(イ・スンマン)を初代大統領とする資本主義の大韓民国が誕生するのです。

司馬遼太郎氏のこの時代の小説では 『翔ぶが如く』『坂の上の雲』もありますが、いずれも名作です。是非お読みになられることをお薦めします。