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Last Updated: 13 August 2006

江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が函館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年の1868年。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた旧制度もおわりを告げました。

三十五年の生涯は、夢のようにすぎてしまった。
武州多摩川べりでのこと、江戸の試衛館時代、浪士組への応募、上洛、新選組の結成、京の市中での幾多の剣闘、・・・・それらの幾こまかの情景は、芝居の書き割りか絵巻物でもみるような一種のうそめいた色彩を帯びてしか、うかびあがって来ない。
夢である、人の世も。と、歳三はおもった。歳三は、それを回顧する自分しか、いまは持っていない。なぜならば、敵の上陸とともに戦うだけ戦って死ぬつもりでいる。もはや、歳三には、死しか未来がなかった。
「やったよ、お雪」と、不意に歳三はいった。
お雪はびっくりして眼をあげた。まつ毛の美しい女である。
「何のことでございます?」「いやなに。やったというのさ」
片言でいって、笑った。かれに巧弁な表現力があれば、「十分に生きた」といいたいところであろう、わずか三十五年のみじかい時間であったが。

※司馬遼太郎氏著『燃えよ剣』より引用。

五稜郭跡

箱館戦争と特別史跡五稜郭跡

五稜郭と歳三

五稜郭と歳三

五稜郭跡

五稜郭跡

五稜郭跡

五稜郭跡

以下、古川薫氏の『斜陽に立つ 』より引用しました。

五稜郭はアメリカと締結した和親条約によって、安政2年(1855)に箱館を開港したので、異船防御を兼ねた幕府の箱館奉行庁舎として造った。設計したのは箱館奉行支配諸術調所教授・武田斐三郎(あやさぶろう)である。彼はフランス式築城術を学び、安政4年からおよそ7年間、10万両の予算、延べ数十万人の労力をかけてこの城を築いた。
城を守るばあい、攻撃兵に死角を与えないためには正三角形や五角形がよいとされている。それで美しい五稜郭となったのである。

元治元年(1864)五稜郭内の役所が完成し、箱館奉行所が移転して業務が行われました。慶応4年(1868)閏4月に明治維新政府に引き継がれ、箱館裁判所・箱館府となりました。その後、旧幕府脱走軍に占拠され、箱館戦争の舞台となり、明治2年(1869)再び新政府の所管となり、明治4年(1871)開拓使の札幌移転に伴い、奉行所庁舎が解体され、その多くが払い下げられました。この屋根材は、奉行所の内玄関式台に使用されたいたもので、当初は瓦葺き屋根でしたが、旧函館税関や民間で利用されたときにトタン屋根に変えられたようです。幕末の建築技術を知る貴重な資料として昭和43年に移転されました。

箱館奉行所玄関

箱館奉行所玄関

ブラッケリー砲(写真:左)

昭和36年、函館市内豊川町で発見。旧幕府脱走軍が湾内に入ろうとする新政府軍艦を攻撃するために、築島台場に設置したものと思われます。
・前装式
・全長2.55m ・重量2,500kg
・イギリス製 ・射程距離約1,000m(推定)

クルップ砲(写真:右)

昭和7年七重浜埋め立て工事の際に発見。旧幕府軍艦「蟠龍」に撃沈された新政府軍艦「朝陽」の艦載砲。で、五稜郭や箱館市内を砲撃しました。
・前装式
・全長2.85m ・重量約1,000kg
・ドイツクルップ社製 ・射程距離約3,000m(推定)

ブラッケリー砲とクルップ砲

ブラッケリー砲とクルップ砲

この建物は、食糧等物資を備蓄するために造られた土蔵造の建物で、元治元年(1864)五稜郭が築城された当時のものです。当時、五稜郭には箱館奉行所庁舎、土蔵厩舎があり、また、郭外には奉行所に勤務する人々の役宅がありました。明治元年(1868)10月、旧幕臣榎本釜次郎(武揚)等が五稜郭を占拠した際(箱館戦争)も使用されましたが、郭外の役宅は翌2年、戦火にあい焼失し、郭内の建物も同四年開拓使の手により解体されました。この「兵糧庫」だけは解体をまぬがれ、長い間の風雪にも耐えてきたのですが、老朽化が著しいため昭和47年から昭和49年にかけて、復元工事を実施し現在に至っています。

兵糧庫(ひょうろうこ)

兵糧庫(ひょうろうこ)

以下、古川薫氏の『斜陽に立つ 』より引用しました。

榎本軍の戦死者は二百数十人といわれるが、確定できない。おびただしい榎本軍戦死者を弔う「碧血碑(へきけつひ)」が、箱館八幡宮の裏山にある。

碧血碑

碧血碑

柳川熊吉は、安政3年(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献しました。明治2年(1869)、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は 賊軍の慰霊を行ってはならないとの命令で、市中に放置されたままでした。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集めて同寺に葬り、それを意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、断罪を免れました。
明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てました。大正2年(1913)、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てました。

柳川熊吉翁の碑

柳川熊吉翁の碑

中島三郎助は浦賀奉行配下の役人でしたが、安政2年(1855)に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。維新後、明治元年(1868)10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来ました。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備につきました。新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしましたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」

という辞世の句を残しました。昭和6年(1931)に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名づけられました。

中島三郎助父子最期の地

中島三郎助父子最期の地

この中島三郎助というひとは、浦賀奉行支配組与力時代に桂小五郎にたいして造船術を教えています。

司馬遼太郎氏著『燃えよ剣』より以下引用しました。

ついに函館市街のはしの栄国橋まできたとき、地蔵町のほうから駈け足で駈けつけてきた増援の長州部隊が、この見なれぬ仏式軍服の将官を見とがめ、士官が進み出て、「いずれへ参られる」と、問うた。「参謀府へゆく」歳三は、微笑すれば凄味があるといわれたその二重瞼の眼を細めていった。むろん、単騎斬りこむつもりであった。
「名は何と申される」長州部隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。
「名か」歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういうわけか名乗りたくはなかった。

「新選組副長土方歳三」といったとき、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。歳三は、駒を進めはじめた。士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、 なおもきいた。
「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」
「降伏?」歳三は馬の歩度をゆるめない。「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。
が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音をたてて地にころがっていた。なおも怖れて、みな、近づかなかった。が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。歳三は、死んだ。

土方歳三最期の地

土方歳三最期の地