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Last Updated: 8 November 2008

小石川後楽園です。幕末、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた藤田東湖の護母致命之記念碑がここにあります。

藤田東湖護母致命之記念碑

安政2年(1855)の安政の大地震の際、藤田東湖は母親を救出するため自らが犠牲となりました。この記念碑は藩邸跡に建立されていましたが、道路拡張の際にここ小石川後楽園へ移されました。

藤田東湖護母致命之記念碑

藤田東湖護母致命之記念碑

小石川後楽園

小石川後楽園
小石川後楽園

 ※現地案内板より
小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。
江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖 徳川頼房は寛永6年(1692年)三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。二代目藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時隣国 明の遺臣で我が国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見るような中国趣味豊かな手法を加味した。
因みに後楽園の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、宋のハン文正の「岳陽楼記」中 士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽 からとったものである。その後もたびたび改修や震、火災で創築時代の壮観さこそ失われたものの逐次手が加えられるなど、幾多の時代の変遷を経て現在に至っている。

小石川後楽園
小石川後楽園

八卦堂跡(写真右) ※現地案内板より

二代光圀七歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は対象十二年の関東大震災で焼失した。

小石川後楽園

小石川後楽園

小石川後楽園

小石川後楽園