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昔から大阪では、「京おんなは好いても惚れぬ」といわれてきたが、あずまえびすは、義仲にせよ、頼朝にせよ、
義経にせよ、尊氏にせよ、この手であしらわれてきたのかもしれない。家康のみは京都と絶縁して江戸で政権
をたてた。これらの権力の狂宴のなかでは秀吉と長州人のみはもっとも好かれた。しかし好かれても惚れられ
たかどうか。
豊臣家の滅亡と運命を共にした京都人はいなかったし、また長州人に心中立てをして革命の火をくぐって死ん
だ京都人もいない。しかし長州人に拍手を送った幕末の京都人の気概と好みは、いまも選挙で革新系候補に
多数の票を送り、知事も市長も社会党というあたりにさえざえと伝統を残している。
かといって革新勢力は甘ったれるわけにはいくまい。この日本唯一の都会人(東京も大阪も各県の植民地に
すぎぬとすれば)ともいうべきわが市民の中には、「好いても惚れぬ」という風雪千年の自我が確立しているの
である。                                      司馬遼太郎著『歴史を紀行する』より。

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幾松 幾松
旧長州藩邸跡の京都ホテルと木屋町通りをはさんで向かい側には、桂小五郎と愛人・幾松が住んでいたところが残されています。この家は、東に鴨川、西に高瀬川に面していて、いつ幕府方や新選組が襲ってきても逃れられる造りになっていると言われています。 200年近く前の部屋がそのまま保存されていて、見学もできるそうです。
桂小五郎・幾松
◆旅館「幾松」の歴史 旅館「幾松」は長州藩控屋敷(明治維新の参謀本部)になっていました。このため近藤勇をはじめとする新選組に何度も斬り込みをかけられ、血闘のあった部屋が今も残っています。幾松は三本木の芸者で、後に木戸夫人となりました。

坂本龍馬中岡慎太郎
■坂本龍馬 中岡慎太郎遭難の地
四条通りと三条通りの中程に石碑があります。その舞台となった近江屋は現在、京阪交通社になっていて、通りを行き交う人々がこの石碑を意識することはほとんどありません。人通りが多い所ですから写真を撮るのも大変です。1867年(慶応3年)11月、ここで坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されました。 当初、犯人は遺留品から新選組の一員と言われていたのですが、今では京都見廻組犯人説が一般的のようです。ほかにも説はあるようですが。真犯人は誰なのでしょうか? 犯人と疑われた新選組の分派の伊東甲子太郎という人物は龍馬と中岡慎太郎の葬儀が行われた夜、油小路で新選組に暗殺されています。
坂本龍馬中岡慎太郎石碑 坂本龍馬中本慎太郎の墓
左:坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像が立っています。ふたりの目の前には京都市内が一望に見渡せる風景があります。
右:坂本龍馬と中岡慎太郎の墓。山の中腹にあるんですね、ここまでの上り坂は結構辛いものがありました。ようやく辿り着いた二人の墓。銅像と同じく仲良く並んでいました。明治維新の英雄の墓は意外と小さなものでした。

壬生寺 壬生寺
桂小五郎像

■壬生寺

この寺は「壬生狂言」で有名な庶民的なお寺です。平安時代、三井寺の僧がこの地に地蔵菩薩を安置して堂を建てたのがこの寺のはじまりです。延命・厄除けの地蔵菩薩として信仰が厚く、節分の時には大勢の参拝者で賑わうそうです。また、境内には壬生塚があり、近藤勇の胸像や新撰組隊士の供養塔、芹沢鴨らなど隊士の墓があります。

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