旅順

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Last Updated: 15 August 2006

旅順東鶏冠山

旅順の街の東北に位置する東鶏冠山(ひがしけいかんざん)、ここには旅順を守る東鶏冠山北堡塁があります。

旅順東鶏冠山

旅順東鶏冠山

※現地案内板より
日露戦争の最激戦地になった旅順攻防戦は、ロシア軍がたてこもる強固な天然岩盤でできた永久要塞との戦いでした。1898年帝政ロシアは強引に旅大を租借した後、長期的に旅順を占領する為に、1900年にこの永久的な防御工事を中国労働者に強制的に建造させます。これは帝政ロシアの旅順東側の陸防御線としての重要な工事ともなっており、主に北側の土地を制御していました。1904年日露戦争が勃発したため、ここは重要な戦場となりました。8月21日、日本軍第11師団は攻撃し始めましたが、なかなか攻め落とせず、坑道爆破という方法で砦に接近しようとしました。12月15日にロシア陸軍防御司令官であるコントラチェンコ(KONTRACHINKO)少将は日本軍に重砲で殺されました。12月18日、日本軍は砦の正面にダイナマイトを2.3トン入れ、大爆破させ、北砦を占領しました。

日露戦争をテーマとした司馬遼太郎氏の作品には、『坂の上の雲』があります。

東鶏冠山北堡塁
東鶏冠山北堡塁

堡塁には30門の大砲を配備し、常時300名を超すロシア兵が守備に当たっていたといわれます。日本軍は強固な岩盤の巨大要塞に対し、榴弾(りゅうだん)を使わず榴散弾(りゅうさんだん)を多用したことが苦戦の原因とも言われています。榴弾は目的物に当たってから炸裂しますが、榴散弾は空中で炸裂し小さな弾が飛び散ります。これは人間を攻撃するのには有効ですが、分厚い岩盤の要塞には全く効果がありませんでした。写真には無数の砲弾跡が見えますが、堡塁内のロシア兵は殆ど無傷でした。
しかし難攻不落と思われていた東鶏冠山北堡塁も、日本軍の決死のダイナマイト爆破によってその一角が崩され、ついには陥落します。

東鶏冠山北堡塁

旅順東鶏冠山北堡塁(当時の写真)

東鶏冠山北堡塁

旅順東鶏冠山北堡塁(当時の写真)

旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山

以下、古川薫氏の『斜陽に立つ』 より引用しました。

セメント二十万樽をつぎこんだべトンでかためる堡塁・砲台五十九ヵ所に、大砲六百四十六門、機関銃六十二挺およびサーチライトを配置、また背面二十キロの本防衛線には延べ五万余メートルの鉄条網、百メートルに及ぶ散兵壕をめぐらせた。

旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山

高所から下を望み、正面の海上からも背面の陸路からも防ぎ易く、攻め難い文字通り難攻不落の要塞に仕立てあげた。日露開戦前夜、この要塞を見学したロシアの新聞記者たちが、「これは荒鷲の巣だ」と一斉に嘆声を発したという。全山を厚いべトンで塗りかためた巨大なスーパー砦のことが、世界に報じられたのだった。

旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山

1854、55年のクリミア戦争のとき、ロシアの要塞セバストポリは英仏連合軍六万と艦隊が猛攻をくわえたが、一年間をもちこたえている。その要塞の四倍という規模の旅順要塞を乃木第三軍は、六万余の死傷者を出し、百五十五日で落とした。

第一次大戦のヴェルダン要塞は二百日にわたる戦闘で、独軍三十四万、仏軍三十六万の死傷者(山川出版社『世界史小事典』)を出している。第三軍の旅順攻撃を「世界戦史にもない拙劣な作戦」と、だれが断定できるだろう。

以上、古川薫氏の『斜陽に立つ』 より引用しました。

日本軍爆破口

旅順東鶏冠山 日本軍爆破口

日本軍爆破口

※現地案内板より
1904年8月11日、日本軍第十一師団の12万人は土屋光春中将によるリードの上、230mm大廻を用いて東鶏冠山北堡塁を攻撃し始めました。堡塁が非常に堅いため、何回攻撃しても奪い取れませんでした。よって山の麓からトンネルを堡塁に近づくよう掘り、発破する戦術を取るようになりました。日本軍の企みを見破るロシア軍は軍隊を派遣して散兵塹壕を山下へ伸ばし、敵を山下まで阻止するつもりでしたが、結果はかえってへまをして日本軍に利用されてしまいました。12月18日、鮫島重雄中将はひどく負傷した土屋光春のかわりに、日本軍を指揮してロシア軍が掘ってくれた散兵塹壕に沿って北堡塁まで早急に近づき、2.3トンダイナマイトで堡塁の胸壁を壊しました。日本軍は堡塁内に突き進み、ロシア軍と激戦を行い、最終的に北堡塁を占領しました。

コントラチェンコ少将の死亡地

コントラチェンコ少将の死亡地

12月15日、日本軍は280mm榴弾砲で東鶏冠山北堡塁を激しく砲撃しました。砲弾の一枚は司令所にあたり、コントラチェンコは死亡しました。戦後、日本軍はその勇猛果敢さを称えここに「コントラチェンコ少将の死亡地」の石碑を建てました。

コントラチェンコ少将

コントラチェンコ少将

水師営会見所

以下、古川薫氏の『斜陽に立つ 』より引用しました。

二0三高地を下りた私たちは、そこから北東約五キロの地点にある乃木将軍とステッセルの会見で知られる水師営にむかう。「崩れ残れる廃屋」だったそれは少し立派すぎる建物になっているが、古写真をもとにかなり正確に復元されている。
有名な棗(なつめ)の木は枯れたので、新しく植えたのが庭の隅に枝をのばしていた。中は見学無料である。野戦病院だったころの手術台につかったというテーブルが土間におかれている。本物だという。

乃木・ステッセル両将軍の水師営会見所
乃木・ステッセル両将軍の水師営会見所

水師営会見所

明治38年1月2日、旅順開城規約の調印が行われ、百五十数日にわたった旅順攻防戦は幕を閉じました。直後の1月5日、乃木大将とステッセル中将は、小さな農家の土間で会見し互いの軍隊の健闘を称え合いました。
写真中列左側より、レイス参謀長・乃木大将・ステッセル中将・伊地知参謀長。乃木は「友人として同列に並んだ写真ならばよい」として撮影を許可したそうです。

レイス参謀長・乃木大将・ステッセル中将・伊地知参謀長

以下、古川薫氏の『斜陽に立つ 』より引用しました。

敗軍の将ステッセルに示した乃木希典の紳士的な応対は、各国から集まってきている報道陣をいたく感激させた。
「これが武士道というものか」
彼らは水師営における両将軍会見の模様を、感動的な記事にして発信し、たちまち欧米各紙を通じて世界にひろがった。

(・・・中略)

日露戦争には報道関係以外に、観戦武官もきており、その人々も水師営の劇的な瞬間を目撃した。
そのなかにアメリカ・スペイン戦争で武功のあったアメリカ合衆国陸軍の中将アーサー・マッカーサーがまじっていた。彼が副官としてつれてきていた士官学校を卒業してまもなくの陸軍中尉は、息子のダグラス・マッカーサーである。親子して乃木希典への熱い尊敬の念を抱いて帰国した。マッカーサー家には、乃木将軍の写真額が飾ってあったという。