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Last Updated: 23 September 2011

文久元年(1861)武市瑞山が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を始める。
文久2年(1862)久坂玄瑞らと佐久間象山を訪ね、国防・国政に関し大いに薫陶を受ける。
文久3年(1863)八月十八日の政変後、土佐藩を脱藩。長州に渡り、主に長州の志士らと活動することとなる。
元治元年(1864)禁門の変、下関戦争(英・仏・蘭・米の四国との戦争)に参加。
慶応2年(1866)1月、薩摩・長州の志士、坂本龍馬らと京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟を締結させる。
慶応3年(1867)7月、陸援隊を組織し隊長となる。
同年11月15日、京都近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃を受け瀕死の重傷を負うも生き延び、襲撃の状況を谷干城(たにたてき)らに語り、2日後の11月17日に死去。享年30。

高知県室戸市室戸岬に立つ中岡慎太郎像 

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像側から見た太平洋の眺望

中岡慎太郎像 室戸岬

中岡慎太郎像側から見た太平洋の眺望

灌頂ヶ浜(かんじょうがはま)

海岸に降りたところに灌頂ヶ浜があり、弘法大師(空海)が灌頂の会式をした浜で、今なおその清さをたたえている、とありました。
灌頂(かんじょう)とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌ぎ、正統な継承者とする為の儀式(ウィキペディアより)だそうです。

灌頂ヶ浜

灌頂ヶ浜

灌頂ヶ浜

灌頂ヶ浜

京都 中岡慎太郎寓居跡

京都ではこの地に住み、志を全うすべく活動した。

中岡慎太郎寓居跡

中岡慎太郎寓居跡 河原町通四条

京都河原町蛸薬師の醤油商近江屋跡

慶応3年(1867年)11月15日 中岡慎太郎は京都河原町蛸薬師の醤油商近江屋で龍馬とともに暗殺されました。

以下、司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』より引用しました。

この日、寒気がつよい。
竜馬はまわたの胴着に舶来綿の綿入れを着かさね、さらにそのうえに黒羽二重の羽織をひっかけて二階奥の間に出た。
二階には四間ある。奥八畳の間で中岡と対座した。
「熱で頭がくらくらする」
といいながら、中岡のはなしをきいた。宮川処置の相談がおわると、新政府の官制についての用談になった。角力の藤吉は二つの部屋をへだてた表の間で楊枝けず りの内職をしている。そのうち夜になったので藤吉は竜馬の部屋の行灯に灯を入れた。
そこへ例の岡本健三郎があそびにきて、両人のはなしをきこうとした。ほとんど同時に菊屋の峰吉少年が入ってきた。峰吉は中岡の使いで錦小路の薩摩藩邸にゆき、その返事をもらって帰ってきたのである。
「峰吉っつぁん、腹がへった」
と竜馬は峰吉をかえりみ、軍鶏を買ってこい、といった。

坂本龍馬 中岡慎太郎

坂本龍馬 中岡慎太郎遭難の地

以下、司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』より引用しました。

「ほたえなっ」
とどなった。土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。この声で刺客たちは討つべき相手の所在を知った。電光のようにかれらは走った。奥の間にとびこむなり、一人は竜馬の前額部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。この初太刀が、竜馬の致命傷になった。

( - 中略 - )

竜馬は、ようやく崩れた。くずれつつ、
「清君、刀はないか」
と、叫んだ。清とは、中岡の変名石川清之助のことである。この場にいたってもなお中岡を変名でよぶ配慮をしたのは、竜馬の意識が明確であった証拠であろう。以上も以後も、すべて事件の翌々日に死んだ中岡の記憶による。

京都霊山護国神社

坂本龍馬 中岡慎太郎像

坂本龍馬 中岡慎太郎像

坂本龍馬 中岡慎太郎の墓

坂本龍馬 中岡慎太郎の墓

坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像が立っています。ふたりの目の前には京都市内が一望に見渡せる風景があります。

京都市内の展望
坂本龍馬・中岡慎太郎の墓付近からみた京都の眺望