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Last Updated: 31 July 2011

橋本左内の縁の地を福井と京都よりご紹介します。

橋本左内生誕の地

橋本左内(はしもとさない)、幕末の福井藩士。
天保5年3月11日(1834年4月19日) 〜 安政6年10月7日(1859年11月1日)

安政の大獄(井伊直弼)で、将軍継嗣問題に介入したことが問われ小塚原刑場にて斬首となった。

橋本左内生誕の地

橋本左内生誕の地

現地案内板より

幕末の越前福井藩士。緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、藤田東湖・西郷隆盛・梅田雲浜・横井小楠らとも交流した。藩主の松平春嶽に側近として登用され幕政改革に参加。将軍継嗣問題では松平春嶽を補佐したことが災いし、安政の大獄で春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、井伊直弼の画策により小塚原刑場にて斬首された。墓は南千住回向院(えこういん)にもある。

橋本左内の像

橋本左内の像(福井市 左内公園内)

橋本左内の像

橋本左内寓居跡 ※現地案内板より

橋本左内は福井藩士で幕末の志士。安政五年(一八五八)二月から四月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、活躍した。
左内の号は景岳。福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、医学を学び、藩主松平慶永に認められて藩学明道館の幹事となった。
一八五七年の藩政改革には由利公正らと手腕を振るった。折から幕府の将軍継嗣問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜を立てる運動を展開。左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名の下に、ここを根拠にして盛んに活躍した。しかし、井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか、左内は 牢舎に入れられ、一八五九年安政の大獄によって死刑に処せられた。時に年二六才。  京都市

橋本左内寓居跡

橋本左内寓居跡(京都)

現地案内板より

「啓発録」は嘉永元年(1848年)この地に眠る郷土の偉人 橋本左内先生が、15歳の時に自分の生活を反省して、自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたものです。
5つの項目は、どれもその考えの深さや鋭さ、心の立派さに感嘆するばかりです。
この偉大な先人の残した言葉は足羽に住む人々の生活の教訓となり、人生の指針になるものと確信します。
平成8年10月7日 足羽公民館 うらがまちづくり足羽地区委員会

啓発録の石版

啓発録の石版(福井市 左内公園内)

吉村昭氏はその著書『桜田門外ノ変』に次のように書かれています。
左内は、五手掛の吟味役によって死罪を申渡されたが、慣例によって老中の指示で遠島となるはずで、左内もそれを信じていた。しかし、井伊大老は死罪の執行を命じ、三樹三郎についで首をはねた。俊才の声高かった左内は二十六歳であった。

橋本左内公園

左内公園(福井市内)

橋本左内の墓

橋本左内の墓(左内公園)