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Last Updated: 6 August 2006

長州藩内における正義派と俗論派との骨肉戦争『大田絵堂の戦い』では、遊撃軍を率いた晋作が諸隊軍陣営に合流し、俗論派の政府軍の陣営に奇襲をかけ勝利します。この結果、長州の藩論は統一されました。

大田・絵堂戦役 呑水峠激戦の地 ※美東町教育員会の現地案内板より

慶応元年(1865)正月14日8時頃より、萩政府軍(俗論党)の大田攻撃が開始された。諸隊(正義党)も奇兵隊を主軸にこれを迎え、正午頃より合戦となる。諸隊は、この地に地雷を埋め赤坂堤まで後退したが、地形不利のため政府軍優勢の中で大激戦となった。そのうち遊撃軍30余名が東側の小中山に登り、陣鼓・陣貝を鳴らして銃撃し、また、奇兵隊が大木津口より政府軍の側面を攻撃したので、政府軍は大いに驚き、雨で火縄銃も役に立たず赤村へ後退した。
この戦いの後、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)等遊撃隊の応援を受けて、16日赤村の敵を夜襲し、決定的な勝利をあげた。この戦いで、正義派が俗論党を敗り、逆転しかけた歴史の歯車を危機一髪で正道に戻し、倒幕・維新へ発展していった。

戦死者  諸隊・・1名、萩政府軍・・10名

大田絵堂戦跡記念碑

大田絵堂戦跡記念碑

現在の絵堂

現在の絵堂

呑水峠(のみずのたお)激戦の地

呑水峠(のみずのたお)激戦の地、山口県では「峠」に「垰」の字を当て、「たお」と呼ぶそうです。

以下『世に棲む日日』より引用しました。

歴史には、こういう現象があるらしい。なるほど山県の主観では、孤軍であった。なぜなら、かれは他の味方と有機的に連繋しあったあげくに、絵堂・大田における決戦をはじめたわけではないからである。藩内の諸地点にいる味方が、春に時を得て自然に百花がひらくように自然のいきおいをもって活動を開始し、しかも、それぞれがその局地において成功し、さらにそれが全体として自然に有機的に作動しあうようになりはじめたのである。いまひとつ巨大なことは、藩内の農民のほとんどが、かれらを後援したことであった。吉富藤兵衛などの大庄屋が村々に発した一片の回状で千二百人の農民が、くわをすてて馳せ参じたというのは、すでにこの様相は、革命というほか、言いようがない。歴史が、革命にむかって大きく傾斜しはじめているということであろう。

この巨大な幕は、晋作がかつて山県らの反対を押しきって長府を発ち、下関で挙兵したことにより切っておとされた。あのとき、雪の長府で晋作が、
こんにちの場合、一里ゆけば一里の忠を尽くし、二里ゆけば二里の義をあらわす。
といった有名なことばが、燎原の火のように事実となってあらわれたのである。歴史は天才によって予言されるとすれば、長州人のこの時期の幸運は、晋作のような奇妙人が存在したからだということがいえるであろう。

金麗社境内
杉孫七郎の歌

大田・絵堂戦役諸隊本陣跡(大田八幡宮・金麗社境内)
本陣が置かれていた金麗社境内は、高杉晋作・山県狂介(有明)、伊藤俊輔(博文)らが作戦会議 を行った場所です。

杉孫七郎の歌碑
「星ににた うめのひかりや ちとせまで」
枢密院顧問杉孫七郎が詠んだこの句は、大田絵堂の戦いと明治維新を金麗社ゆかりの梅にたとえたものだそうです。

『其命維新』の碑

その命(天命)はこれ新たなり、『維新』は『革命』ではありません。明治維新は、もとからあった日本という国の制度等すべてを新しくやり直しをしたという意味だそうです。

其命維新

『其命維新』の碑

諸隊(正義派)により長州藩内の革命は成功しました。俗論派政権のために政治犯となっていた正義派の者は釈放され、俗論派の頭目だった椋梨藤太は藩外へ逃亡しようとしますが捕らえられ処刑されました。