旅順

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旅順東鶏冠山

旅順の街の東北に位置する東鶏冠山(ひがしけいかんざん)、ここには旅順を守る東鶏冠山北堡塁があります。

日露戦争の最激戦地になった旅順攻防戦は、ロシア軍がたてこもる強固な天然岩盤でできた永久要塞との戦いでした。

1898年帝政ロシアは強引に旅大を租借した後、長期的に旅順を占領する為に、1900年にこの永久的な防御工事を中国労働者に強制的に建造させます。これは帝政ロシアの旅順東側の陸防御線としての重要な工事ともなっており、主に北側の土地を制御していました。1904年日露戦争が勃発したため、ここは重要な戦場となりました。8月21日、日本軍第11師団は攻撃し始めましたが、なかなか攻め落とせず、坑道爆破という方法で砦に接近しようとしました。12月15日にロシア陸軍防御司令官であるコントラチェンコ(KONTRACHINKO)少将は日本軍に重砲で殺されました。12月18日、日本軍は砦の正面にダイナマイトを2.3トン入れ、大爆破させ、北砦を占領しました。

- 現地の案内板より引用 -

日露戦争をテーマとした司馬遼太郎氏の作品には、『 坂の上の雲』があります。

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Last Updated: 15 August 2006

東鶏冠山北堡塁
東鶏冠山北堡塁
堡塁には30門の大砲を配備し、常時300名を超すロシア兵が守備に当たっていたといわれます。日本軍は強固な岩盤の巨大要塞に対し、榴弾(りゅうだん)を使わず榴散弾(りゅうさんだん)を多用したことが苦戦の原因とも言われています。榴弾は目的物に当たってから炸裂しますが、榴散弾は空中で炸裂し小さな弾が飛び散ります。これは人間を攻撃するのには有効ですが、分厚い岩盤の要塞には全く効果がありませんでした。写真には無数の砲弾跡が見えますが、堡塁内のロシア兵は殆ど無傷でした。
しかし難攻不落と思われていた東鶏冠山北堡塁も、日本軍の決死のダイナマイト爆破によってその一角が崩され、ついには陥落します。
東鶏冠山北堡塁
東鶏冠山北堡塁
旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山
旅順東鶏冠山

旅順東鶏冠山

■日本軍爆破口

1904年8月11日、日本軍第十一師団の12万人は土屋光春中将によるリードの上、230mm大廻を用いて東鶏冠山北堡塁を攻撃し始めました。堡塁が非常に堅いため、何回攻撃しても奪い取れませんでした。よって山の麓からトンネルを堡塁に近づくよう掘り、発破する戦術を取るようになりました。日本軍の企みを見破るロシア軍は軍隊を派遣して散兵塹壕を山下へ伸ばし、敵を山下まで阻止するつもりでしたが、結果はかえってへまをして日本軍に利用されてしまいました。12月18日、鮫島重雄中将はひどく負傷した土屋光春のかわりに、日本軍を指揮してロシア軍が掘ってくれた散兵塹壕に沿って北堡塁まで早急に近づき、2.3トンダイナマイトで堡塁の胸壁を壊しました。日本軍は堡塁内に突き進み、ロシア軍と激戦を行い、最終的に北堡塁を占領しました。

- 現地の案内板より引用 -

コントラチェンコ少将の死亡地 コントラチェンコ少将

■コントラチェンコ少将の死亡地
12月15日、日本軍は280mm榴弾砲で東鶏冠山北堡塁を激しく砲撃しました。砲弾の一枚は司令所にあたり、コントラチェンコは死亡しました。戦後、日本軍はその勇猛果敢さを称えここに「コントラチェンコ少将の死亡地」の石碑を建ててました。

水師営会見所

乃木・ステッセル両将軍の会見室
水師営会見所
乃木・ステッセル両将軍の会見室
■水師営会見所
明治38年1月2日、旅順開城規約の調印が行われ、百五十数日にわたった旅順攻防戦は幕を閉じました。直後の1月5日、乃木大将とステッセル中将は、小さな農家の土間で会見し互いの軍隊の健闘を称え合いました。
写真中列左側より、レイス参謀長・乃木大将・ステッセル中将・伊地知参謀長。乃木は「友人として同列に並んだ写真ならばよい」として撮影を許可したそうです。

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