上の写真は山口市内の萩往還:天花畑(山口側最北の集落)です。
萩往還は、萩城下(萩市)から山口市を経て瀬戸内の港三田尻(防府市)をほぼ直線で結んでおり全長は大凡53Kmあります。慶長9年(1604年)萩城築城後に、参勤交代の為の「御成道:おなりみち」として開かれましたが、その後は武士のみならず、商人・農民など多くの人が利用し、山陰と山陽を結ぶ道として重要な交通路となります。幕末にはここを多くの志士たちが往来しており、維新幕開けのために重要な役割を果たしました。
延元元年(1336年)に大内弘直により再建され、その菩提寺となった普門寺です。文久3年(1863年)に萩の藩庁が山口に移り、大村益次郎が藩命により江戸から帰藩しますが、益次郎はこの普門寺(山口市)を宿舎としました。やがて諸生に乞われて歩兵・騎兵・砲兵など3兵学を教授したため、その当時普門寺塾とか三兵塾と呼ばれました。
以下、
『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。
文久三年(1863)、八・一八の政変に敗れて京を追われた長州は、翌年、蛤御門の変を起こし、幕府の長州征伐の口実となった。
同じ年、外国艦隊を敵に下関戦争となり、藩内にあっても政変があいつぎ、まさに内憂外患の窮地にあった。
その間、益次郎は歴史の表に立つことなく、ひたすらここで兵学者として、士官の教育にあたる毎日を過ごしていた。
そのころ、藩や藩士の彼に対する扱いも出身を卑しんでひどく冷淡であったといわれる。だが益次郎は、もはや時代の担い手は高位高禄を食む武士ではなく、百姓・町人をも含む新しい階級の人々であることを鋭く指摘し、その兵学においていち早く実践に着手していたのである。
慶応元年(1865)、幕府の第二次長州征伐の噂が高まったその年、益次郎は木戸孝允の推挙により、軍務大臣に抜擢された。そして藩命により、村田蔵六を改め、大村益次郎を名のることになる。
あくる慶応二年七月、幕府は三十六藩に命じて、長州に接する芸州、大島、小倉、石州の四つの国境から数万の兵を進めた。四境戦争、いわゆる第二次長州征伐である。
これに対して長州は、海軍、高杉晋作、陸軍はにわかに現れた大村益次郎が、すべての作戦を立てた。彼は、みずからも石州口での戦いの指揮をとるべく、農民兵七百余りを引き連れて、数千の幕軍と対峙したのである。
山口藩庁門です。文久3年(1863年)毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口(現在の山口県庁所在地)に新たに築き山口政事堂と称しました。
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