(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 5 May 2010

信州長野市より善光寺、八幡原(はちまんぱら)史跡公園・川中島古戦場などをご紹介します。

現地案内板より

本堂:善光寺の本堂は、皇極天皇元年(642年)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は宝永年(1707年)の再建です。間口は約24メートル、奥行は約54メートル、高さは約26メートルあり、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。
鐘楼:嘉永6年(1853)に再建されたもので、6本の柱をもつ珍しい形式です。「日本の音風景百選」に選ばれ、平成10年長野冬季オリンピックでは、この鐘の音が開会の合図として世界に響き渡りました。

善光寺

善光寺 本堂(国宝)

善光寺 鐘楼

善光寺 鐘楼

善光寺

善光寺山門(三門)

善光寺

善光寺山門(三門)内仁王像

善光寺山門(三門) ※現地案内板より

寛延3年(1750年)に完成した、二層入母屋造りの門です。間口と高さは約20メートル、奥行は8メートルあります。

川中島古戦場八幡原 ※現地案内板より

川中島合戦は今から400年前、天文22年より永禄7年に至る13年の永きに亙って行われたが、後世に広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がここ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍合わせて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で双方死斗を盡し、ここ八幡原は大修羅場と化した。その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし、武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたと言う有名な「三太刀、七太刀」もこの処である。時に信玄41歳、謙信32歳であった。この戦で死傷者7千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣枡形陣地で当時の一部を物語っている。両将の戦術は幾多の戦術研究の指針として現代戦にも多く応用されたと聞く。

川中島大合戦図

川中島大合戦図

川中島古戦場八幡原

八幡原(はちまんぱら)史跡公園 川中島古戦場

川中島古戦場八幡原

八幡原(はちまんぱら)史跡公園 川中島古戦場

「風林火山」の旗 ※現地案内板より

武田軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺の禅僧快川招喜の筆になるものである。
「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。

上杉謙信・武田信玄一騎討ちの銅像

上杉謙信(馬上)・武田信玄(軍配で防禦)一騎討ちの銅像

首塚 ※現地案内板より

この塚は以前屍塚(かばねつか)と呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正(こうさかだんじょう)が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。

首塚

首塚

川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑

川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑

現地案内板より

武田・上杉両軍3万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原(はちまんぱら)の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅(はらおおすみ)が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけて、ひと槍突きだした。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭(さんず)をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔しさったため、信玄は危うく虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。

執念の石

執念の石

三太刀七太刀之跡と逆槐 ※現地案内板より

上杉謙信と武田信玄一騎討ちの際、謙信の馬上からの流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が7ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。

山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。

三太刀七太刀之跡

三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと)

逆槐

逆槐(さかさえんじゅ)