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戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 ー 明治2年(1868年 ー 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であったことに由来する。明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。

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江戸無血開城後も悲惨な内戦が続くことになります。

鳥羽伏見の戦い激戦地跡

鳥羽伏見の戦い激戦地跡

慶応四年、明治元年

‐1868年‐

1月

  • 戊辰戦争の緒戦となる鳥羽伏見の戦いが勃発。
  • 徳川慶喜、大阪城を出て軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。慶喜は恭順謹慎を表明。

2月

  • 徳川慶喜、上野の寛永寺大慈院において謹慎。
  • 渋沢成一郎や天野八郎らにより彰義隊が結成。

天野八郎と清川八郎

天野八郎 天保2年(1831) 〜 明治元年(1868)
  幕末期の幕臣、彰義隊の副頭取。
清川八郎 天保元年(1830) 〜 文久3年(1863)
  幕末期の庄内藩の志士、浪士組の盟主としてこれを率いて京都へ、後に新選組が誕生する。

寛永寺の旧本坊表門

寛永寺の旧本坊表門

3月

  • 山岡鉄舟、薩摩の益満休之助を案内役とし、駿府在の西郷隆盛のもとに交渉に向かう。
  • 明治政府の基本方針、五箇条の御誓文が示される。
  • 河井継之助、上席家老(執政)になる。

益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)

天保12年(1841) 〜 慶応4年(1868) 幕末の薩摩藩士。
慶応3年(1867)、伊牟田尚平らとともに江戸で多くの浪人を集め、民衆の不満をつのらせるために江戸市中を混乱させる工作をした。この工作にまんまと乗った庄内藩らにより江戸薩摩藩邸の焼討事件となる。この報が伝わり、会津藩及び桑名藩を刺激、鳥羽伏見の戦いが勃発することとなる。上野戦争で流れ弾にあたり死亡。

西郷南洲 勝海舟 会見之地

西郷南洲 勝海舟 会見之地

4月

  • 勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談による決戦の回避、結果江戸城は無血開城する。
  • 元新選組局長・近藤勇斬首。

勝海舟(かつ かいしゅう)

文政6年(1823) 〜 明治32年(1899)、山岡鉄舟、高橋泥舟と合わせて幕末の三舟と呼ばれる。
天保2年(1831)、犬に睾丸を噛まれ以来犬嫌いとなる。10代より島田虎之助に剣術を学び、直心影流剣術の免許皆伝となる。天保9年(1838)、家督を相続。嘉永5年(1852)、海舟の妹が佐久間象山と結婚。
安政2年(1855)、長崎海軍伝習所開設に赴任。万延元年(1860)、咸臨丸で渡米し、帰国後軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争では幕府の軍事総裁となり、早期停戦を訴え江戸城の無血開城に貢献した。
勝海舟に関しては、子母沢寛(しもざわ かん)氏の 勝海舟(新潮文庫) がお薦めです。

上野公園内 彰義隊墓所

上野公園内 彰義隊墓所

5月

  • 奥羽越列藩同盟。会津藩、仙台藩などの奥羽、越の諸藩が同盟を締結。
  • 大村益次郎、上野戦争において寛永寺に立て籠もった(輪王寺宮を擁立)彰義隊を破る。

上野戦争を輪王寺宮を主として書かれた、吉村昭(よしむら あきら)氏の 彰義隊 (新潮文庫) もお薦めです。

7月

  • 江戸、東京と改称。
会津 鶴ヶ城 鐘撞堂(かねつきどう)

会津 鶴ヶ城 鐘撞堂(かねつきどう)

8月

  • 長岡で北越戦争、会津で会津戦争、秋田で秋田戦争など激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わる。
  • 河井継之助、会津へ落ちのびようとしたが破傷風により只見にて死去。
  • 明治に改元。
長岡城本丸跡

長岡城本丸跡

北越戦争(ほくえつせんそう)
北越戦争は長岡市周辺での新政府軍と旧幕府軍の戦争であり、戊辰戦争を通じて最大の激戦といわれている。

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見での緒戦に勝利した新政府軍は、東海道・東山道・北陸道の3方に分かれ、北陸方面においてまず小千谷(小千谷市)を占領した。長岡藩の河井継之助は、当時希少なガトリング砲や最新の銃など兵器を豊富に備え、旧幕府支持の構えは変えなかった。ただ武装した上での中立という考えで、会津藩から奥羽越列藩同盟への参加を申し入れられてもこれを拒絶していた。

5月、河井継之助は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を聞き入れず小千谷談判は決裂。長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍との間に戦争が始まることとなる。長岡藩(同盟軍)は新政府軍が占領していた榎峠を攻撃して奪回するなどして奮戦、新政府軍は長岡藩(同盟軍)の抵抗にかなりの苦戦をしいられた。新政府軍は膠着状態を打破すべく、船で信濃川を渡河し、長岡城下へ奇襲攻撃をかけた。長岡藩(同盟軍)の主力部隊は榎峠に集結しており、隙を突かれた城は間もなく落城した。新政府軍のダメージもかなり大きかったため、長岡藩(同盟軍)が長岡城を奪還する場面もあったが、新政府軍は再攻勢をかけて長岡城を再占領した。時をほぼ同じくし会津・米沢藩兵らの守る新潟も陥落、激戦の末、越後の全域を新政府軍が支配した。8月、河井継之助は会津へ落ち延びる途中の会津塩沢(只見町)で、戦闘で負傷した傷がもとで死亡した。この後、旧幕府軍と新政府軍の戦いは会津戦争へと続くこととなる。

箱館 五稜郭

箱館 五稜郭

12月

  • 旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い箱館の五稜郭を占拠。明治政府から独立した蝦夷共和国の樹立を宣言。

明治二年

‐1869年‐
箱館 土方歳三最期の地

箱館 土方歳三最期の地

5月

  • 土方歳三戦死。
  • 箱館戦争、旧幕府軍が新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結。
戊辰戦争のおり斬首覚悟で旧幕軍の遺体を手厚く葬った侠客(きょうかく)たち

三河屋幸三郎(みかわや こうざぶろう)

通称:三幸親分 文政6年(1823)〜 明治22年(1889)
父が罪を犯し八丈島へ島流しされ、同島で生まれたことから島小僧との異名もあります。横浜開港後は貿易で成功し、幕臣である勝海舟らとも交友がありました。戊辰戦争では上野に籠った彰義隊を支援、逃亡する隊士をかくまい、屍体が野にさらされているのを見かねて円通寺の住職仏麿和尚とともに手厚く葬りました。

柳川熊吉(やながわ くまきち)

文政8年(1825)〜 大正2年(1913)
江戸浅草出身で、柳川鍋を商いとしたため姓を柳川と称したといわれています。柳川熊吉は安政3年(1856)、北海道へ渡り請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献しました。明治2年(1869)、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は 賊軍の慰霊を行ってはならないとの命令で、市中に放置されたままでした。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集めて同寺に葬りました。

山本長五郎(やまもと ちょうごろう)

通称:清水 次郎長(しみずの じろちょう) 文政3年(1820)〜 明治26年(1893)
慶応4年(1868)8月、旧幕軍榎本武揚(えのもと たけあき)は艦隊数隻を率いて品川沖より脱走しました。ところが暴風雨となりそのうちの1隻である咸臨丸(かんりんまる)は故障し漂流、修理のため清水港に入港します。新政府軍はこれを発見し船に残っていた旧幕軍全員を惨殺しました。その後逆賊として埋葬を許されず放置されていた屍体を、清水次郎長こと山本長五郎は小船を出して収容し手厚く葬りました。
この咸臨丸は安政7年1月(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するための正史を乗せたポーハタン号に随行するかたちで、勝海舟・福沢諭吉・ジョン万次郎などが乗船し太平洋横断したあの咸臨丸です。清水港事件の3年後の明治4年9月(1871)、北海道の小樽へ向かう途中、暴風雨により遭難しサラキ岬沖で沈没しました。