会津磐梯山(あいづばんだいさん)
JR磐越西線(ばんえつさいせん)で郡山から会津若松に向かう列車車中から撮影。

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Last Updated: 26 November 2006

『この国のかたち』より以下引用しました。

会津藩(福島県)について書く。
江戸時代、この藩は磐梯山の裾野にひろがる大きな盆地を根拠地とし、会津若松を城下として、二十三万石(幕末には四十余万石)を領していた。
藩祖は保科正之(1611 ~ 72)で、徳川家康の孫にあたる。
正之はまじめで律儀、民生への思いやりもあり、その人柄がそのまま藩風になった。
藩士教育もゆきとどいていて、三百諸藩の手本のようになった。
親藩であったから、外様藩のように幕閣の機嫌をとったりする必要がなかった。従って政略の能力を欠き、むしろそれを卑しむところもあった。
そのような藩が、幕末の京という、政争の渦中に投じこまれたのは、歴史に魅入られたとしか言いようがない。

現地案内版より

南北朝の頃、葦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(1592)蒲生氏郷が七層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。
上杉から再び蒲生そして加藤となり寛永16年(1639)加藤明成が天守閣を五層にし北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させている。戊辰の役(1868年)には1ヶ月のろう城に耐えた。

鶴ヶ城 外濠

鶴ヶ城 表門(鉄門:くろがねもん)

鶴ヶ城

鶴ヶ城

現地案内版より

時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は延享4年(1747)若松の鋳工早山掃部介安次(そうやまかもんのすけやすつぐ)等の作として知られ、鐘の撞き方は江戸流であった。
戊辰の役(1868年)には、ここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。

鐘撞堂(かねつきどう)

会津藩 幕末における戊辰戦争までの概略

攘夷派の志士たちが京にあつまり、天誅という名の暗殺を繰り返し、所司代や奉行所は手の施しようがなく、幕末の京都は無政府状態にありました。文久2年(1862)、幕府は非常治安機構ともいうべき京都守護職を置くことに決め、白羽の矢を、会津藩主松平容保(かたもり)に立てます。容保は固辞しますが結局は受けざるを得なくなります。
※松平容保 天保6年12月29日(1836年2月15日)~ 明治26年(1893年)12月5日 会津藩最後となる9代藩主。

新選組が会津藩あずかりとなり、攘夷派を激しく取り締まり、それなりの成果を出しますが、倒幕家たちの恨みを会津藩に集中させる結果となります。
政略渦巻く京都にあって、会津藩は薩摩藩と協力し長州系公家を一掃したり、蛤御門の変では長州軍の入洛を防ぎこれを討伐しました。ところがその翌々年に薩摩は長州と手を結び明治維新への基礎をつくり始めます。徳川慶喜は慶応3年(1867)政権を朝廷に返し、大坂城にこもりますが、薩摩は長州軍を京都に迎え入れ土佐藩とも同盟の内約を結んで一大軍事勢力を形成します。

大坂城の慶喜を多数の会津藩兵が護衛しており、薩摩藩は旧幕府側から戦いをはじめるようにさかんに挑発します。会津藩兵はこの挑発にのってしまい、新選組や幕府歩兵とともに京街道を北上し、やがて鳥羽・伏見での戦いに敗北します。局地戦に過ぎない小さな敗北であったにもかかわらず、慶喜は旧幕府も会津藩も捨てて、夜陰容保ら数人を連れ軍艦で江戸へ逃げてしまいます。その後慶喜は恭順を標榜し、江戸城を開城して退隠。新政府側は革命の樹立を世間に周知させるため、慶喜を血祭りにあげたかったのですが、その的がいなくなってしまったため、会津藩が次の標的となりました。戊辰戦争のなかで会津藩は鶴ヶ城を拠点にしてよく戦いますが、篭城戦の末力尽き、悲惨な道を辿ることになります。