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乃木 希典

乃木 希典(のぎ まれすけ) 1849年(嘉永2年)~1912年(大正元年)

長州藩出身 江戸麻布長府毛利上屋敷に誕生。子供の頃、左目を蚊帳の先で傷つけ失明。
1866年(慶應2年)第二次長州征伐小倉口の戦闘に参加
1877年(明治10年)西南戦争に従軍、軍旗を西郷軍に奪われる
1892年(明治25年)日清戦争に従軍
1898年(明治31年)陸軍大将に昇進
1904年(明治37年)日露戦争に従軍(第三軍司令官)。長男・勝典、二男・保典を戦死さす
1905年(明治38年)旅順要塞降伏、ステッセル将軍と水師営の会見。奉天会戦
1906年(明治39年)学習院院長
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇崩御。同年(大正元年)9月13日殉死

司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』のなかで日露戦争での乃木将軍を、無能な将軍として書かかれておりますが、『殉死』では明治天皇を慕う武人としての生き方を美しく書かれています。

乃木大将の出身地:城下町長府に残る乃木希典の史跡
長府は西暦193年、仲哀天皇・神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から、忌宮神社が創建され、数々の神事が継承され、大化二年(646年)には、長門の国府として長府と呼ばれるようになり、政治的・軍事的拠点として重要な役割を果たしてきました。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の役後、毛利秀元が長府五万石の城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩政時代もありましたが、幕末になりますと文久・元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐と激動と苦難の道を辿ることになります。元治元年(1864年)十二月十五日、功山寺における高杉晋作の回天の義挙により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎えることになります。
維新発祥の地記念碑の文章を参考にさせていただきました。

練塀

城下町長府

横枕小路

横枕小路

復元された旧乃木邸 長府市乃木神社内

旧木旧邸

旧乃木邸

乃木神社は全国に建てられましたが、ここ下関市長府以外では、函館市・室蘭市・栃木県那須郡・東京都港区・滋賀県蒲生郡・京都市伏見区・香川県善通寺市にあります。
現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914)、そのゆかりの地に忠実に復元されたもので、極めて質素な生活をしていたことを偲ばせています。
乃木は安政5年(1858)、十歳のとき父とともにこの地に帰り、十六歳で萩に従学するまで、長府城下で過ごしました。
希典が11歳の時、親戚にあたる吉田松陰が、幕府に捕らわれ処刑されています。萩に従学とは、松陰の叔父である玉木文之進に弟子入りしたことをさします。玉木文之進は『松下村塾』の創設者であり、松陰に徹底的な教育を叩き込んだ(あまりにも厳しい教育であったため松陰の母は松陰に「もうお死んでおしまい」と言ったくらい)人です。こんな人ですから心身ともに鍛えあげられたのでしょう。
玉木文之進は前原一誠を中心とした『萩の乱』に関与し、切腹しています。

乃木大将御夫妻像 長府市乃木神社

乃木大将御夫妻像

乃木大将御夫妻像

大正元年(1912)9月13日赤坂の自邸で天皇の霊柩が皇居を出る号砲を合図に、夫人(静子)と共に殉死しました。

うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり
希典

出でまして 還ります日の なしときく 今日の御幸に 遭うぞかなしき
静子

殉死当日の乃木夫妻

殉死当日の乃木夫妻

殉死当日の乃木夫妻 東京市赤坂区新坂町の自邸

旧乃木邸 長府市

二○三高地の松

二○三高地の松:旅順郊外の高地である二○三高地の攻撃では非常に多くの死傷者をだしました。

台柄(だいから)

台柄(だいから)
玄米を白米にする米つき台です。

梅井 乃木家用の井

梅井 乃木家用の井