長州の人間のことを書きたいと思う。
いまでこそ、この長門、周防つまり防長両国をあわせたこのあたりの山河はただの山口県と称されるにすぎないが、以前はそうではない。『世に棲む日日』より
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Last Updated: 23 June 2007
吉田松陰(寅次郎)天保元年8月4日(1830年9月20日) - 安政6年10月27日(1859年11月21日)


現地案内板より。
玉木文之進(1810〜76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家から出て玉木家(大組40石)を継いだ。生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造瓦葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。


玉木文之進には子がいませんでした。このため、玉木家の宗家とされる長府の乃木家から正誼(まさよし)を養子にとります。正誼というのは乃木希典(のぎまれすけ)の弟です。希典もまた少年のころ、玉木家で起居して文之進の教育をうけました。松陰と希典とは、玉木文之進を師とする同門ということができます。
玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。
この時のことを以下のように追懐されています。『
世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。ついては介錯をたのむ、と申されました。私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。私はちょうど四十でありました。わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。介錯をしたあとは、夢のようでありました。

玉木文之進の墓