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Last Updated: 3 September 2006

萩往還:天花畑

萩往還は、萩城下(萩市)から山口市を経て瀬戸内の港三田尻(防府市)をほぼ直線で結んでおり全長は大凡53Kmあります。慶長9年(1604年)萩城築城後に、参勤交代の為の「御成道:おなりみち」として開かれましたが、その後は武士のみならず、商人・農民など多くの人が利用し、山陰と山陽を結ぶ道として重要な交通路となります。幕末にはここを多くの志士たちが往来しており、維新幕開けのために重要な役割を果たしました。

萩往還

萩往還

普門寺 (山口市)

延元元年(1336)に大内弘直により再建され、その菩提寺となりました。
文久3年(1863)に萩の藩庁が山口に移り、大村益次郎が藩命により江戸から帰藩しますが、益次郎はこの普門寺を宿舎としました。やがて諸生に乞われて歩兵・騎兵・砲兵など3兵学を教授したため、その当時普門寺塾とか三兵塾と呼ばれました。

普門寺

普門寺

普門寺

普門寺

普門寺

普門寺

以下、『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。

文久三年(1863)、八・一八の政変に敗れて京を追われた長州は、翌年、蛤御門の変を起こし、幕府の長州征伐の口実となった。同じ年、外国艦隊を敵に下関戦争となり、藩内にあっても政変があいつぎ、まさに内憂外患の窮地にあった。その間、益次郎は歴史の表に立つことなく、ひたすらここで兵学者として、士官の教育にあたる毎日を過ごしていた。そのころ、藩や藩士の彼に対する扱いも出身を卑しんでひどく冷淡であったといわれる。だが益次郎は、もはや時代の担い手は高位高禄を食む武士ではなく、百姓・町人をも含む新しい階級の人々であることを鋭く指摘し、その兵学においていち早く実践に着手していたのである。
慶応元年(1865)、幕府の第二次長州征伐の噂が高まったその年、益次郎は木戸孝允の推挙により、軍務大臣に抜擢された。そして藩命により、村田蔵六を改め、大村益次郎を名のることになる。
あくる慶応二年七月、幕府は三十六藩に命じて、長州に接する芸州、大島、小倉、石州の四つの国境から数万の兵を進めた。四境戦争、いわゆる第二次長州征伐である。これに対して長州は、海軍、高杉晋作、陸軍はにわかに現れた大村益次郎が、すべての作戦を立てた。彼は、みずからも石州口での戦いの指揮をとるべく、農民兵七百余りを引き連れて、数千の幕軍と対峙したのである。

県指定 有形文化財 旧山口藩庁門 一棟 ※現地案内板より

この門は、元治元年(1864)時の藩主、毛利敬親(もうりたかちか)が、藩政の本拠地を萩から山口へ移すため建設した山口政事堂の表門として築造されたものと言われています。築造当時は、幕末の動乱期にあたり、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文等の藩士が足早にこの門を往来したことと思われます。門の構造は、切妻造・本瓦葺の薬医門であり、主材はけやきと松を用い、木割は太く豪快で、いかにも城門らしい風格を残しています。
明治4年(1871)の廃藩置県までは、藩庁門として使用され、その後は山口県庁正門として、さらに、新県庁舎(現県政資料館・国指定重要文化財)が完成した大正5年(1916)からは、西口の門として利用され、現在に至っています。
山口県  山口県教育委員会

山口藩庁門

山口藩庁門

山口藩庁門

山口藩庁門

山口藩庁門

文久3年(1863)、毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口市に築き、山口政事堂と称しました。

山口藩庁門

山口藩庁門

山口藩庁門

山口藩庁門