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Last Updated: 3 May 2010

吉田松陰、小林虎三郎、橋本左内等が師と仰いだ幕末の大先覚者・佐久間象山縁の史跡を京都よりご紹介します。

佐久間象山寓居跡

佐久間象山寓居跡(京都市三条木屋町)

佐久間象山遭難の地

佐久間象山遭難の地(京都市三条木屋町)

河上彦斎による象山の暗殺について、海音寺潮五郎氏は 『幕末動乱の男たち』に次のように書かれています。

暗殺者らは、万事段取り通りにやった。象山が木屋町に曲りこむと、前田と南とが飛び出し、馬をはさむようにして十間ほど走り、馬を斬った。一人の刀は力あまって象山の左の股に斬りこんだ。象山は鞭をふるってたたきつけ、馬をあおった。松浦は飛び出したが間に合わない。象山は家のごく近所だから、脱出出来ると計算したらしいが、その前に彦斎が飛び出した。馬は棒立ちになる。象山は落馬した。彦斎は自得の刀法で、片手なぐりに横にはらい、象山の胴をはらった。象山は屈せず、刀をぬいたが、彦斎はこんどは真向からふりおろし、顔を斬りわった。そこに松浦が駆けつけて肩から斬り下げた。
若党の坂口ははるかにおくれていた。遠くから見て、絶叫しながら刀をぬいて駆けつけた時には、彦斎らは北に逃げ、長州屋敷の東北角にかかっている高瀬川の橋を渡りつつあった。坂口は追いかけて行き、力一ぱい刀を投げつけた。一人の足にあたったが、そのまま角倉屋敷の角を曲って消えた。坂口は引きかえして来て、主人を抱きおこしたが、もう絶息していた。象山の受けていた傷は大小十三カ所もあったというから、はじめ飛び出し、走りながら斬りつけた二人の刀が、相当下身部にあたったのであろう。首はとられていなかった。

<・・中略・・>

彦斎は皆と別れて一人になって、嵯峨に行き、天竜寺の長州勢に投じたが、象山を斬ったことを皆に語った後、こう言ったという。
「わしはこれまで、誰を斬っても、わら人形ば斬るように、平気じゃったばってん、今日は違うた。はじめて人間ば斬る気がして、髪の毛のさか立つ気がした。象山はたしかに絶代の豪傑じゃ。こぎゃんことばかししとると、わしのいのちも長うなか。もう人斬りはやめるばい」
以後は決して暗殺はしなかったというが、彼が維新刺客中の最大ものといわれるのは、象山を斬ったからである。そのほかは誰を斬ったかもわかっていない。

佐久間象山の略年譜

文化8年(1811)
・信濃国松代藩の下級武士・佐久間国善の子として誕生。

天保4年(1833)
・江戸に出て佐藤一斎に学び、その才は認められ、山田方谷とともに二傑と呼ばれました。

天保10年(1839)
・神田お玉が池に私塾象山書院を開きます。吉田松陰、小林虎三郎、橋本左内、河井継之助、勝海舟、坂本龍馬など後に活躍する有能な人材を門下に集めました。
吉田松陰(寅次郎)と小林虎三郎は「象門の二虎」と称されました。また象山の妻は、勝海舟の妹順子です。

嘉永6年(1853)
・ペリーが来航し開国を迫ります。この時象山は浦賀まで視察に訪れています。
その翌年、再び来航したペリーの艦隊に弟子である吉田松陰が密航を企て、失敗します。
象山も事件に連座して、一時伝馬町へ入獄され、その後松代に蟄居を命じられます。

文久2年(1861)
・蟄居をとかれその間、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎らが象山を訪ねています。

元治元年(1864)
・一橋慶喜に招かれて入洛します。公武合体論や開国論を説いたり、孝明天皇の彦根動座を画策するなど、当時の京都においては危険過ぎる行動でした。このため、同年7月 11日に三条木屋町筋において尊攘派の河上彦斎らに暗殺されます。享年54歳でした。彦斎はその後人斬りをやめていますが、それまで人斬り彦斎と呼ばれ幕末四大人斬りのひとりに数えられています。

※幕末四大人斬り 肥後藩:河上彦斎 、薩摩藩:中村半次郎、薩摩藩:田中新兵衛、土佐藩:岡田以蔵。