JR会津若松駅前にある白虎隊士の像

(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 26 November 2006

会津若松市河東町南高野字高塚山にある会津藩校『日新館』です。ここは会津藩の城:鶴ヶ城からかなり離れており、当然当時藩校はこの地にはなく、観光用に復元されたものです。日新館跡地は鶴ヶ城そばに天文台跡として残っています。会津藩の男子は、十歳になるとこの藩校に入学することになっていました。

現地案内版より

会津藩校日新館は、五代藩主松平容頌(まつだいらかたのぶ)の時代に、家老田中玄宰(たなかはるなか)の建議によって企画され、享和三年(1803年)に完成した。
『日新』の名は、大学の『苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ マタ日ニ新タニセン』の文に由来し、その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる幅広い内容であった。
文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、今日の小学校から大学まであり、武は兵学をはじめ弓術、刀術等武芸全般に及び、学力の水準は群を抜いていた。

※紀元前16世紀の中国殷王朝の創始者である湯王は、日々心を新たにし、進歩向上しようと、盤銘に『苟ニ(まことに)日ニ新タニ、日日ニ新タニ、又日ニ新タナリ』と刻み、毎日読んで自戒したといわれています。

日新館

日新館

日新館

日新館

天文台跡 現地案内版より

天文台は、会津藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられたものである。日新館は五代藩主松平容頌公のとき、寛政十一年(一七九九)四月より五年の年月を費やして、享和三年(一八0三)に完成した。天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家があつまり、晴雨・考暦を偏したところで、重要な施設の一つであった。観台は当時の規模の半分となったが、藩校日新館の施設の中で、は唯一の保存されているものである。

※吉田松陰は東北遊学で行きと帰りの2度、この会津若松に立ち寄っていますが、日新館には特に興味を示し見学したといわれています。

天文台跡

現地案内版より

山鹿流兵学をおしえ、いわゆる赤穂四十七士の生みの親ともなったことで余りにも有名で、元和8年(1622)8月16日この地、町野左近の邸内に生まれました。時の会津藩主は蒲生忠郷(氏郷の孫)でありこの辺一帯は武家屋敷がたくさん並んでいたところです。素行は通称を勘五左ヱ門といい、父貞以が伊勢亀山から会津に来た年に生まれたといわれます。6歳の時、父に従って江戸に出て、九歳で林羅山の門に入り儒学・国学・新道・兵学の奥義をきわめ、特に兵学においては山鹿流の一派をなすに至り、その名声は天下にとどろきました。
なお現在の碑は大正15年(1926)4月、東郷平八郎の書によって建立されたものです。

※吉田松陰は長州藩兵学寮の教授であり、吉田家は藩の山鹿流兵学師範家でした。ここは日新館のすぐそばにあり、松陰は自らの兵学の祖である素行の誕生の地も訪れたことでしょう。

※山鹿素行(やまがそこう) 山鹿流兵学の始祖。
元和8年8月16日(1622年9月21日)~ 貞享2年9月26日(1685年10月23日)
素行の孫の山鹿高道は江戸より平戸へ移り住み、平戸藩につかえ、その子孫は代々家老職をとり、学統をまもっていました。松陰は平戸遊学の際、当代の山鹿万介に入門しています。

山鹿素行誕生の地