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Last Updated: 3 May 2010

佐久間象山誕生地(長野市松代町) ※現地案内板より

ここは象山の曾祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化8年(1811)2月11日この地で生まれた。天保10年(1839)の二度目の江戸留学まで29年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学また神渓とも号した)といい、五両五人扶持(70石相当)の家だったが、剣は卜伝流(ぼくでんりゅう)の達人であり、また、易学をもって知られた名門だった。
屋敷の指定面積は、877.8平米で、南方中程に表門、西方中程に裏門があった。住宅は屋敷東寄り中央に東西五間、南北三間半の茅葺(かやぶき)平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学門所があり、裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構であった。屋敷東北隅には硝石製造原土置場があった。
元治元年(1864)3月、徳川幕府の招きで上洛し開国・公武合体を主張し大いに画策したが、同年7月11日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年54歳。佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊された。当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみである。

佐久間象山宅跡

佐久間象山宅跡(長野市松代町)

佐久間象山宅跡

佐久間象山宅跡(長野市松代町)

佐久間象山誕生地の碑

佐久間象山誕生地(長野市松代町)

象山神社

象山神社(長野市松代町)

象山神社

象山神社(長野市松代町)

象山神社 無事カエル

象山神社 無事カエル

象山神社内の碑 ※現地案内板より

【左】碑文
余年二十以後乃(すなわ)ち匹夫も一国に繋(かか)るあるを知り 三十以後乃ち天下に繋るあるを知り 四十以後は乃ち五世界に繋るあるを知る
(註)当時一国は松代藩、天下は日本国、五世界は全世界をいう。
【右】桜賦
桜賦は万延元年(1860)春、象山先生五十歳の時の作で、孝明天皇の天覧を賜った由緒ある名文である。桜花の美徳をたたえて憂国の至情をこれに託し、人に知られぬ山の奥に散りゆく桜の花をじぶんにたとえ、ひそかに勤皇の志を述べた韻文である。
この碑文は長野市の文化財に指定されている象山先生自筆の紙本から複製したもので、昭和51年4月11日篤志家の寄進によって建碑された。

象山神社内の碑

碑文

象山神社内の碑

桜賦

象山神社内の碑と高義亭 ※現地案内板より

【左】望岳賦
望岳賦は天保12年(1841)夏、象山先生三十一歳の時の作といわれ、桜賦と並び称される名作である。富士山の気高く優美な姿を讃えて、自分の理想と抱負をこれに寄せた韻文である。
この碑は明治23年、象山先生と義兄弟の誼を結んだ村上政信が、先生直筆の書を碑文に彫りその邸内に建てたものであるが、その後行方不明となり、久しく幻の碑と称されていたが、東京杉並高円寺の修道院内に在ることが判明し、昭和48年11月9日神社創立35周年祭の当日奉迎再建した。
【右】高義亭
もと松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷にあった建物である。安政元年(1854)佐久間象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応接し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟藁葺(さんかわらぶ)きとする。下屋根も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
一階は、玄関(二坪)・取り次ぎの間(六畳)・次の間(九畳)・客間(十畳)・茶の間(六畳)・勝手(四畳半)と、西に納屋を造り出す。玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。客間と次の間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付けて二階の昇り口とする。
二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に六畳間、北に置床付き七畳半の間がある。ここが象山が来客と対応した間である。
明治以降住人が替わり、原形も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。

象山神社内の碑

望岳賦

高義亭

高義亭

松代藩鐘楼 ※現地案内板より

松代藩鐘楼
この鐘楼は、真田信之が元和8年(1622)10月、上田城から移り松代城主となってまもない寛永元年(1624)に設けたもので、ここに松代藩足軽千人余の番割りをした番割役所を置いたので、割番所ともいった。
この鐘は、昼夜の別なく一時(約二時間)ごとにつかせて時刻を知らせ、また城下に出火の際に非常を知らせた。城下町のたび重なる大火で、享保2年(1717)・天明8年(1788)・寛政12年(1800)の3回類焼にあい、初代・二代の鐘は焼損し、文化3年(1806)につくられた鐘は太平洋戦争中に供出された。平成3年旧鐘の寸法・重量を模して、新しい鐘がとりつけられた。
寛永元年建築のものは、鐘楼と火の見が一棟建てだったのが、寛政12年の火災のあと別棟とし、享和元年(1801)に再建されたものが現存する鐘楼で、北隣にあった火の見櫓は明治初期に取りこわされた。
また、この鐘楼は嘉永2年(1849)佐久間象山がオランダ語の書物をもとに電信機を作り、北東70メートルにあった御使者屋に電線を張り、両者の間で電信実験に成功した「日本電信発祥の遺跡」である。

松代藩鐘楼

松代藩鐘楼

日本電信発祥之地

日本電信発祥之地

茶室 煙雨亭(長野市松代町) ※現地案内板より

象山先生は松代における9ヶ年の蟄居の後、元治元年(1864)3月幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくして三条木屋町の鴨川べりの一戸構えに移った。この家は二階建で広く茶室迄も備わり、鴨川を隔て東山・八坂の塔なども見える、眺めのよい家であった。従って、先生は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、煙雨楼と名づけられた。先生が7月11日、頑迷な攘夷論者のため非業の最期を遂げらるるまで僅か二ヶ月の住居であった。
この茶室はその煙雨楼内の茶室で、昭和40年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏が譲り受け保管されていた。昭和56年にその資材のご寄贈をいただき先生の往時を偲び後世に伝えるため煙雨亭と名づけ、先生縁りの地に移築したものである。

煙雨亭

煙雨亭

煙雨亭

煙雨亭