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Last Updated: 16 May 2010

慶応2年(1866)6月、幕府艦隊の周防大島への砲撃で四境戦争の火蓋が切られました。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用。
周防大島(すおうおおしま)は、山口県大島郡周防大島町に属する島である。正式には屋代島(やしろじま)と称するが、周防国の大島であったことから周辺の小島を含めて周防大島と呼ばれることが多い。古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされた。本州沖約2キロメートルの瀬戸内海上にある。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島である。

大島瀬戸(大島大橋付近、大島側からの眺望)
大島瀬戸(大島大橋付近、大島側からの眺望)

本州との間の大島瀬戸(大島大橋付近、大島側からの眺望)、潮流が速く古くは水運の難所とされていた。

維新墓地 ※現地案内板より

由緒:慶応2年6月11日徳川幕府は第二次征長軍を進発させ四境戦大島口攻略を企図した。軍艦4隻小舟多数により幕兵約2000人が久賀村宗光より上陸、同時に安下庄にも軍艦2隻を主流に幕兵約1500人が上陸して腹背より迫ってきた。味方は第二奇兵隊、浩武隊、大島兵、上関兵、大野、浦、村上などの諸隊で応戦、9日間の激戦の末、敵を海上に潰走させた。この墓碑群はこの戦闘の戦死者、戊辰北越従軍戦死者、その他維新ゆかりの人たちの墓碑であり、明治10年招魂社祭として毎年8月15日が例祭日として定められていた。

八田八幡宮

八田八幡宮

八田八幡宮 維新墓地

八田八幡宮境内にある四境の役、戊辰の役の戦死者の墓碑

追原古戦場

追原古戦場 周防大島町久賀

明治百年記念公園

明治百年記念公園 周防大島町久賀

明治百年記念公園

明治百年記念公園 周防大島町久賀

現地案内板より

嘉永以降、国家多難なり。わが旧藩主忠正公父子、勤皇の大義を首唱し、幕府の忌むものとなる文久3年8月、俄かに我が藩をして宮中の警備役を解任せしめ、三条実美ら七卿長州にくだる。幕府ここにおいて忠正公父子の入京を停む。藩士哀しみて無実を天に訴うるも達せず。ついに元治元年の蛤御門の変あり。幕府則ち、その罪をことあけし、わが藩を攻めて公父子を討たんとす。わが藩、恐れて益田越中ら三家老を斬り、以って謝罪す。幕府軍乃ち退く。いまだいくばくならずして再び軍を出だし、わが四境を圧す。

慶応2年6月11日、幕艦数艘わが大島郡久賀・安下庄両村に来襲す。わが守兵腹背に敵を受け、戦い利あらず。退きて遠崎村を守る。飛報、山口に達す。ここにおいて士民大いに幕府軍の無礼を憤り、争ってまさに南部の守兵に敵せんと欲す。第二奇兵隊・浩武隊及び三丘・大野・阿月等の諸兵来たり会す。奇兵隊将高杉晋作もまた丙寅丸に搭乗し、幕艦を久賀浦に撃つ。6月14日夜、諸軍の潜兵海峡を渡り屋代村に陣す。15日、三石・源明・笛吹の三道より幕府軍来襲す。わが兵迎戦して源明、笛吹の敵を大破し、逃ぐるを追いて安下庄両村に至る。殺傷数少なけれども、三石の敵もっとも精鋭剽悍なり。第二奇兵隊部将国行雛次郎らこれに死す。わが兵ために屈せず奮進勇闘してついにこれを破る。敵退きて久賀村を保つ。わが兵道を分かちて進撃す。敵支うるあたわず。夜に乗じて逃ぐ。ここに於いて敵の一兵も見ず。まさにこの時、もし敵をして大島郡に拠り出没侵掠せしめば、則ちわが長州軍の芸州口、石州口、小倉口の者、皆内顧の憂いありて、勝敗の局面いまだ知るべからざるなり。余かつておもえらく四境の戦に勝ちてわが忠正公の勤皇の志、初めて伸び、王室中興の業終に成ると。然れば則ちこの役の関係するところ大ならずや。このごろ有志諸子まさに碑を久賀村に建て戦死者の姓名を刻み以ってその忠烈を千歳に表さんとし、余をしてこれを記せしむ。余当時第二奇兵隊に軍監となりて陣中に在れども、今は則ち老いたり。往時を回顧すれば則ち悲しみに堪えず。故に不文を顧みず、その梗概を録せりと云。

明治24年5月 従六位 白井素行 撰す

誠忠不朽之碑

誠忠不朽之碑

誠忠不朽之碑文

 

現地案内板より

慶応2年夏、幕府再び兵を興じて来り、我が旧藩を攻む。第二奇兵隊周防岩城山に屯す。小隊長立石孫一郎、櫛部坂太郎ら、窃かに隊中の少壮数十の輩と議して曰く、坐して大敵を待つは、策にあらざるなり、進んでその不備を襲ひ夜に乗じて営を脱し、備中倉敷官署を屠り、浅尾に進行するにしかずと。蓋し、立石なる者は、もと美作の人。かつて倉敷代官に憾みあり。故にこの挙ある也。旧藩これを聞きて大いに驚き、直ちに兵を発して追捕し、かつ幕府及び岡山藩に告げてこれを挟撃す。立石ら腹背に兵を受け、遂に潰ゆ。少年の輩、始めてその誤する所となるを知り、本隊に自首す。罪を譜する旧藩軍法を以ってし、皆、斬に処す。実に5月某日也。それ立石ら、身は隊長となりて、法を犯し報ゆる私怨を以ってするは、罪、死もなほ軽し。少年の輩に至りてはただ隊長の命を奉ずるのみ。その衷情、憐れむべきものあり。この輩、多く余に係る。郷人の余、初めこれを勧誘して以て入隊せしむ。事変に及び、余、時に萩にあり。馳せ帰りてこれを救はんとするも、刑名己に定まる。系、またこれをいかんすべき。乃ち、軍吏に請ひて、ために説法す。その従容として念仏し、刑に就くの状、今、なほ目に在り。ああ、先に、この輩をして発しせしめしこと、たとひ人それ勇敢に奮闘し、国家に報効するを得とも、果していかん。ひとたび死して名実無きは惜しむべき也。頃日、郷友相謀りて誠忠不朽の碑を建石し、側に、以ってその名字を存ぜしむ。余、因りて、その梗概を記し、以って死者の霊を慰むと云。
明治26年8月 大洲鉄然撰並書

大洲鉄然撰並書

大洲鉄然撰並書

毛利元昭篆額

毛利元昭篆額

周防大島町久賀の海

周防大島町久賀の海

周防大島町久賀の海

周防大島町久賀の海

現地案内板より

楢崎剛十郎は、天保9年久賀町能庄に生まれた。尊皇討幕の風雲高まるにつれてその志を固め奇兵隊編成に努力した。第二征長軍に備えては熊毛郡石城山に第二奇兵隊を組織してその書記役となったが、隊内の意見が分かれ慶応2年4月4日暗殺された。享年29歳 功により明治35年従五位を贈られた。

楢崎剛十郎顕彰碑

楢崎剛十郎顕彰碑

覚法寺 大洲鉄然(おおずてつねん)生誕の地 周防大島町久賀

覚法寺12世雪道の二男として生まれ、維新の役には石城山に第二奇兵隊を編成し、大島口の戦い(四境の役)では護国隊を率いて勇戦した。
【周防大島町のHPより引用】

覚法寺

覚法寺

覚法寺

覚法寺

浄西寺 山口県大島郡周防大島町大字油宇1176番地

慶応2年(1862)の四境の役で幕府の艦隊(大江丸・富士山丸)から砲撃された跡が石垣に残っている

四境戦幕艦砲撃之趾

浄西寺 四境戦幕艦砲撃之趾

幕府軍戦艦から撃たれた砲撃の跡 周防大島町油宇

浄西寺 幕府軍戦艦から撃たれた砲撃の跡

幕府軍戦艦から撃たれた砲撃の跡

浄西寺 幕府軍戦艦から撃たれた砲撃の跡

浄西寺からの眺望

浄西寺からの眺望

浄西寺からの眺望

浄西寺からの眺望

現地案内板より

シーボルトの牛ヶ首上陸については、「シーボルト江戸参府紀行」によると、「文政9年(1826)3月3日、上関と室津との間の海峡を通過して午後10時牛ヶ首沖に碇を下ろし、翌3月4日にはこの牛ヶ首に上陸、動・植物の観察や対岸の沖家室島、平郡島、水無瀬島をスケッチして同日の午後出帆、束島と怒和島との間を東北東の針路をとって御手洗に向かう」とある。古来よりこの地は、交通の要衝であり、この沖を幾多の人々、文物が往来した。シーボルトの上陸は、その一つの証左である。

シーボルト上陸の地

シーボルト上陸の地