僧月性
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Last Updated: 15 May 2010

月性(げっしょう) 文化14年(1817)~安政5年(1858)、周防国大島郡遠崎村の妙円寺の住職

【幕末勤王僧 月性】※月性展示館リーフレットより

月性は、文化14年、妙円寺に生まれた。詩人として、また、海防僧として業績を残した人物である。天保2年から4年余り、福岡県豊前市の恒遠醒窓の元で詩文を学び、優れた詩人としての基礎を作った。天保14年には有名な「男児立志の詩」を作った。その他多くの傑作を残し、その詩は千編を越すといわれる。嘉永元年には、清狂草堂を開塾した。遠近より入塾を希望する若者が集まり、明治維新に活躍する多くの人物を輩出した。月性は尊王攘夷・海防の急を説いた。月性が海防僧といわれる所以である。月性の海防護国の主張に共鳴した人物も多く、その講説は防長二州の全域にわたった。吉田松陰とも交流があり、松陰は自分の塾生に月性の講演を聴講させたこともあった。安政5年、病のため、42歳でその生涯を閉じた。

妙円寺

妙円寺 山口県柳井市遠崎

妙円寺

妙円寺

妙円寺

妙円寺

妙円寺

妙円寺

清狂草堂(せいきょうそうどう) ※現地案内板より

月性師が嘉永元年から安政元年までの約7年間開いていた塾名で一般に時習館といわれた当時の塾は50m余東方によった地点に建てられていた。輩出された門下生の中で(贈従四位)世良修蔵、(贈正五位)大洲鉄然、赤根武人、大楽源太郎、(従六位)入江石泉、天地哲雄、浪山真成、土屋恭平、和真道(やまとしんどう)、富樫文周らは有名である。この草堂は明治23年師の32回忌にあたり師を追慕し偉大なる事蹟をたたえるため友人秋元晩番、門人天地哲雄らが発起してこれを建て回名を付したものである。上の間は明治23年6月下旬有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)墓参のとき御成りの間であり、翌24年9月伊藤博文が墓参の折にここに少憩した。

清狂草堂

清狂草堂

清狂草堂

清狂草堂

清狂草堂

清狂草堂

清狂草堂

清狂草堂

妙円寺鐘楼

妙円寺鐘楼

月性師記念碑(月性顕彰碑) ※現地案内板より

師の50回忌を記念して明治40年12月に建てられた。篆額(てんがく)は毛利元昭、碑文は山縣有朋の撰で、筆は徳山の赤松連城である。文中、「独り月性方外(僧)の身を以って慷慨義を唱え君を愛し国を憂うる己私より甚だし」とあり、月性の熱烈なる愛国精神が述べられている。

清狂師之墓 月性の墓

清狂師之墓 月性の墓

月性顕彰碑

月性顕彰碑

現地案内板より

幕末の詩僧としても名高い月性は多くの傑作を遺しているが、その中でも天保14年(1843)夏月性が京坂遊学のため出郷するに際して作ったのが「将に東遊せんとして壁に題す」である。この詩は、幕末から今日まで世の人々に愛誦され、広く青年の血を湧き立たせ、幾多の偉人傑士の心の糧となったものである。詩は七言律詩で前詩に老母を思う気持ちを述べた「別るるに忍びんや北堂垂白の親」の四句がある。詩碑の文字は萩松陰神社所蔵の月性自筆「清狂吟稿」によるもので、月性が吉田松陰に贈ったものである。

訳文
男児志を立てて郷関を出づ 学若し成る無くんば復還らず 骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地 人間到る處青山有り

詩意
男子が一たび志を立てて故郷を後にしたからは所期の目的が貫徹できない以上二度と郷里の土を踏まない。骨を埋めるに必ずしも古里の地を期すべきでない。世間には何処にでも青山(墓地)がある。燃ゆるが如き雄心を詠じたもの。

二十七年雲水身
男児立志出郷関

男児立志の詩
二十七年雲水身 又尋師友向三津 児烏反哺応無日 忍別北堂垂白親【左】
男児立志出郷関 学若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山【右】

扁額 梨堂書(三条実美) ※現地案内板より

この扁額は、三条実美:さねとみ(1837~1891)の揮毫によるもの。実美は、明治前期の政治家で、父、実万:さねつむ(1802~1859)が、安政の大獄により落飾して失意のうちに歿したため、その志をついで尊王攘夷運動の先頭に立った。文久3年(1863)8月の政変で京都を追われ長州(山口県)に逃れた。いわゆる七卿落の一人である。後年王政復古とともに官位は復旧、右大臣、太政大臣等も歴任、明治政府の中心となり、新生国家建設に尽力した。

清狂草堂 扁額

「清狂草堂」扁額

月性記念館内

月性記念館内

月性記念館内

月性記念館内

妙円寺近くより瀬戸内海、周防大島方面眺望

妙円寺近くより瀬戸内海、周防大島方面の眺望

月照(げっしょう) 月性と月照は別人です。

月照 文化10年(1813) 〜 安政5(1858) 京都の清水寺成就院住職、幕末の尊皇攘夷派の僧侶。

尊皇攘夷派として活動し、将軍継嗣問題では一橋派を推したため大老の井伊直弼は月照を危険人物とみなしました。薩摩藩の西郷隆盛とは親しく、島津斉彬の急死を受けて殉死しようとする西郷に対し、亡き斉彬の意志を継ぐように諭しました。安政5年(1858)の安政の大獄で京都を追われ薩摩へ逃れますが、薩摩藩は月照の保護を拒否し、日向国送りを命じました。これにより西郷隆盛や平野国臣らとともに日向国へ舟で向かいますが、途中西郷と月照は死を覚悟し錦江湾に入水、月照は溺死、西郷は奇跡的に一命を取りとめました。