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大村益次郎は京都、大阪の地で最後を迎えます。


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Last Updated: 30 September 2006

■大村益次郎銅像 靖国神社内
大村益次郎銅像
靖国神社にある大村益次郎の銅像です。明治26年(1893年)に日本で最初の西洋式銅像として建てられ、上野戦争の折江戸城から指揮する勇姿を形にしたものだそうです。大村益次郎(村田蔵六)は司馬遼太郎著『花神』に詳しく書かれています。

以下は『花神』により、上野戦争開戦前の大村益次郎(村田蔵六)についての記述を引用しました。

蔵六は、夜間に執務する。
昼間はかれが立案したことを人をして行わしめるだけであり、かれ自身はひまであった。
たいていは、碁をうつ。
相手はたれでもいいのである。蔵六自身が碁をうちたいと思えば、碁盤の前ですわっていればいい。
「またすわっている」
と、他藩の連中で蔵六に好意をもっている者は遠目からその姿をみて笑った。気の毒に思って蔵六の前にすわる者があると、蔵六は無言で黒石をもち、ぱちりと一石置く。蔵六の碁はとびきりへたで、定石さえ知らなかった。勝負はたいてい蔵六の負けであった。
「あの弱さで、いくさが勝てるのか」
と悪意をこめてささやく者もあり、蔵六に好意をもっている者は、いや碁といくさはちがうのだ、と弁護したりした。

確かに益次郎はいくさを知りぬいていました。上野戦争では勢力劣勢の新政府軍を率い、わずか1日で彰義隊を破ります。ただ勝つのみならず、市街地の白兵戦を避けるために彰義隊を上野の山に集結させ、敗走する彰義隊の市街地への放火を恐れ、雨天を戦闘日としました。これらは最大限の江戸市民への配慮であり、新政府軍の人気を落とさぬようにとの配慮でもあります。益次郎の戦略/智略はまさに天才的でした。
■大村益次郎寓居の地 京都 木屋町御池上ル ■大村益次郎遭難の地碑 京都 木屋町御池上ル
大村益次郎寓居の地 大村益次郎遭難の地碑
明治2年(1869年)、兵制改革に反対する長府藩士神代直人(こうじろなおと:長州の捕吏に捕らえられ、即日斬首)らにここで襲われ重傷を負い、大坂鈴木町の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けますが、敗血症のため容態が悪化、11月5日に死去します。享年46歳。
この地三条木屋町筋では、佐久間象山も尊攘派の河上彦斎(げんさい)らに暗殺されています。時期は5年程ずれますが、ふたりは奇しくも同じ場所で暗殺されました。

大村益次郎は歴史が彼を必要としたとき彗星のようにあらわれ、その使命が終わると(志半ばではありましたが)大急ぎで去ってしまいました。
司馬遼太郎氏の『花神』の主人公は大村益次郎(村田蔵六)ですが、中国では花咲か爺のことを『花神』というそうです。

 

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