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Last Updated: 5 October 2008

久坂 玄瑞(くさか げんずい)天保11年(1840年)~ 元治元年(1864年)

蛤御門 現地案内板より

江戸時代末期の元治元年(1864年)、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました。この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。この門は新在家門といわれてましたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれてます。

蛤御門(京都御所外側から)

蛤御門(京都御所外側から)

蛤御門(京都御所内側から)

蛤御門(京都御所内側から)

以下、古川薫氏の『花冠の志士 小説久坂玄瑞』より引用しました。

玄瑞は奥の間に入り、麻の陣羽織や小具足を外して、膝の激痛に耐えながら、端然と坐っていた。入江九一がやってくる。ここで一緒に自刃させてほしいという。
「おぬしは五体満足ではないか。この場は逃げてくれ。後事を託したいのだ」
懇願するような玄瑞の目を見て九一は頷いた。もはや別れのことばはない。
「久坂さん、髪が乱れておる」そういって九一は、微笑しながら胴着の間から櫛を取り出し、玄瑞のふさふさと艶を帯びて垂れた髪を、すくいあげるように整えてやると、ゆっくりとした足どりで出て行った。
長州藩が退却して、応戦する気配がないので、幕兵も攻撃をやめ鷹司邸の焼け落ちるのを見守っているふうであった。
嘘のように鎮まった空気を徐々にふるわせながら、建具の燃え弾ける音が、拡がっていく。それらを下に抱きこんだ公家屋敷の屋根が、午下がりの真夏の陽光を浴びて、傲然と反りかえっている。長い廊下を、薄く煙が這いはじめる。その煙を踏み散らすようにして、寺島忠三郎が、玄瑞のいる部屋に入ってきた。
「逃げなかったのか」と、玄瑞は、おだやかに詰った。
「だめですよ、入江さんも、屋敷を出た矢先に会津兵の槍で目を刺され、その場で討死です。もう逃げられん。一緒に死なせてもらいますよ」忠三郎は、どうやら初めから玄瑞と死ぬつもりだったのだ。

清水谷家の椋 現地案内板より

この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約三百年くらいで苑内でも数少ない椋の大木です。1864年の蛤御門の変の時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。

清水谷家の椋

清水谷家の椋(京都御所)

清水谷家の椋

清水谷家の椋(京都御所)

京都御所内

京都御所内

京都御所内

京都御所内

禁門の変(蛤御門の戦い) 現地案内板より

元治元年甲子(1864)7月19日、長州兵三方面から発して御所を目標に進んだが、たがいに連絡協力の余裕なくそれぞれ三ヶ所で勝手な戦いとなった。福原越後の伏見勢は北上して藤ノ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新選組にたたかれあっけなく敗走、国司信濃の天龍寺軍は一挙に御所の西側をついたが、会津・薩兵のため蛤門から撃退され、益田右衛門介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら越前兵に壊滅させられた。この日のいくさを後世「蛤御門の変」あるいは「禁門の戦い」と称す。実は三つの軍団の三つの戦闘なのである。その際に来島又兵衛政久、久坂義助通武、寺島三郎昌昭、入江九市弘毅、真木和泉守保臣等外数十名戦死あるいは屠腹する。これらの志士ことごとく霊山に眠る。

京都霊山護国神社

京都霊山(りょうぜん)護国神社