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Last Updated: 5 October 2008

久坂 玄瑞(くさか げんずい)天保11年(1840年)~ 元治元年(1864年)

高杉晋作と松下村塾の双璧、高杉晋作・吉田稔麿(としまろ)松陰門下の三秀、高杉晋作・吉田稔麿・入江九一とともに松門四天王と称せられる。残念ながら、彼ら四天王は全員維新を見ずに斃れます。玄瑞の妻は吉田松陰の妹の文。

幕末の志士、この地に出生 ※現地案内板より

明倫館に入りのち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。長井雅楽の航海遠略策に反対し藩論を尊攘討幕に一変させ攘夷督促勅使東下の奏請に奔走、英国公使館の焼打に下関の外国船砲撃に参加した。元治元年(1864)蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刀した。享年25。

久坂玄瑞誕生之地

久坂玄瑞誕生之地 萩市平安古

久坂玄瑞誕生之地

久坂玄瑞誕生之地 萩市平安古

久坂玄瑞誕生之地

久坂玄瑞誕生之地

久坂玄瑞誕生之地

久坂玄瑞誕生之地

以下、古川薫氏の『花冠の志士 小説久坂玄瑞』より引用しました。

秀三郎が生まれた当時、久坂一家は長州萩城下の平安古(ひやこ)にいた。八軒長屋の奥で、しかも支藩清松候の家来山根某との寄合所帯である。その長屋というのは、現在も萩市の明倫小学校(藩校明倫館跡)から1キロばかり国道を玉江橋側に寄った、平安古公会堂の近くに、一部を遺している。老朽化したこの棟割長屋の大部分は取り壊され、久坂家の人々が住んでいたところは、空地になって、そこにかれの誕生の地の碑が建てられている。

藩校明倫館跡

藩校明倫館跡 萩市明倫小学校

藩校明倫館跡

藩校明倫館跡 観徳門 嘉永2年(1849年)建築

藩校明倫館跡

藩校明倫館跡 萩市明倫小学校

藩校明倫館跡

藩校明倫館跡 萩市明倫小学校

以下、古川薫氏の『花冠の志士 小説久坂玄瑞』より引用しました。

秀三郎(久坂玄瑞)の父、久坂良迪(りょうてき)は藩医でしたが、家禄は二十五俵しかなく貧しい生活でした。良迪は阿武郡生雲村の大庄屋の娘富子と結婚し、三人の男子をもうけます。長男の玄機は、三男の秀三郎より二十も年上で、二男は早世しています。玄機は大坂の適塾に学び塾頭までつとめた逸材で、父の業を継いで医師となり、藩の医学校である好生館の蘭学教授をつとめました。玄機は数多くの蘭書を翻訳し、その内訳としては、医学より軍事に関する書物が多くありました。

嘉永六年(1853年)六月、干支は癸丑(きちゅう:ミズノトウシ)、ペリーの黒船が相模湾に来航しました。その直後の八月、母富子が病没し、玄機と秀三郎の兄弟は肉親の死がもたらす激しい悲しみを知ります。
翌、安政元年(1854年)一月、再びペリーが江戸湾に侵入して、幕府に開国をせまりました。当時本州最西端の辺地にあった長州藩は、幕府より大森海岸警備から相州警衛という大任を任されており、このペリーの再来は実に身近な事件となりました。
時の長州藩主は西洋軍事にも明るい好生館蘭学教授の久坂玄機に、海防に対する献策を命じました。この時玄機は折り悪く病に臥していましたが、この日のためにこそ、との思いで海防献策の執筆にとりかかったのでした。執筆のための徹夜は数日にわたり、精魂尽き果て、筆を握ったまま玄機は絶命してしまいます。まさしく武士を思わせるこのすさまじい死にざまは、秀三郎にとって深い悲しみであるとともに、終生忘れ得ないものとなりました。更なる追い討ちは、玄機の初七日の日に、父良迪があっけなく鬼籍の人となったことです。わずか半年の間に、両親と兄が次々と死に急ぐように消え、久坂家には秀三郎ただ一人が残されました。みなが黒船に殺された、秀三郎は胸中何度も叫びました。
唯一の幸は、藩が家督の相続を秀三郎に許し、更に手続上の間違いで二十五俵の相続を二十五石としたことでした。

ここで秀三郎が継いだのは、藩医たる久坂家である。その家業を襲い、医師として立つ希望を抱いたのであれば、おそらく黒船来航などは無縁に、かれの平穏な生涯は約束されたかもしれない。だが秀三郎は、すでに医家から一歩をはみ出していた兄玄機の姿を、胸中にあたためているのである。
結局、久坂秀三郎のち玄瑞(げんずい)、義助(よしすけ)の青春は、癸丑の夏から数えて、およそ十年後に迎えるかれ自身の消滅点までを、疾駆した。

山口県萩市にある久坂玄瑞之墓

山口県萩市にある久坂玄機(左)と父良迪之墓(右)