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東郷平八郎 (とうごう へいはちろう)
1847年(弘化4年)〜1934年(昭和9年)
薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島市加治屋町)出身
海軍大将(元帥)
弘化 4年 (1847年)誕生
文久 3年 (1863年)薩英戦争に参加
明治 4年 (1871年)英国へ留学 明治11年に帰国し海軍大尉
明治27年 (1894年)日清戦争に浪速艦長として参加
明治36年 (1903年)連合艦隊司令長官
明治37年 (1904年)日露戦争 海軍大将
明治38年 (1905年)日本海海戦にてバルチック艦隊を被る
昭和 9年 (1934年)88歳にて逝去
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司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』のなかで、日露戦争の連合艦隊司令長官として登場します。
日本海海戦では三笠に乗って連合艦隊司令長官として指揮をとり、当時世界最強のロシアのバルチック艦隊を破りました。その後アドミラル・トウゴウとして世界の賞賛をあび、軍神、東洋のネルソン、世界三大堤督のひとりなどと称されています。
過去ロシアにひどいめにあったフィンランドでは『東郷ビール』を出すほどに敬愛しているそうです。
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鹿児島市加治屋町 東郷平八郎誕生之地案内板

鹿児島市加治屋町 東郷平八郎誕生之地碑
■東郷平八郎邸宅跡 東京都千代田区四番町
以下、司馬遼太郎氏著『
明治という国家』より。
私は二十余年前、横須賀に係留されている「三笠」(第一艦隊旗艦となった)を訪ねて、ブリッジにあがったことがあります。ブリッジというのは、じつに高い。・・・
ところが、東郷さんは、長い海戦中、そこから微動だにしなかったというのは、自分の役割をそのようにきめていたということでしょう。当時の連合艦隊とバルチック艦隊のお互いに射ちあいをはじめる距離というのは、正確には忘れましたが、だいたい六、七千メートルとかそんなものでしょう。海の六、七千メートルというのは、相手がじつに目近に見える。向こうの顔さえ見えそうな近さから打ち出される大砲の弾というのは人間に生物的な恐怖をあたえます。また軍艦というのはゆらゆら揺れていて、われわれシロウトだと高所恐怖症になりそうです。海戦中は至近弾がずいぶん「三笠」のまわりに落ちました。落ちるたびにデッカイ水柱が立ちます。その水が艦橋に落ちてきたり、しぶきをあげたりして、雨の中にいるようなものだったでしょう。東郷さん、全然うごかなかった証拠に、終わったあと、彼が下りていったときに白い靴跡が残っていたそうです。だから、そこで死ぬつもりだったんでしょうね。
私こと幕末紀行人が棲む福岡市にほど近い津屋崎には、『東郷公園』があり東郷平八郎や戦艦『三笠』にまつわるものが置かれています。近々に取材に行きこのコーナーでご紹介したいと思います。
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