京都における龍馬所縁の地をご紹介いたします。 『竜馬がゆく』、お薦めです。

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Last Updated: 3 September 2006

■酢屋 龍馬寓居跡 中京区河原町三条下ル
酢屋 龍馬寓居跡
龍馬寓居跡
『酢屋』は初代酢屋嘉兵衛さんから現在十代目の酢屋嘉兵衛さんまで280年以上も続いている材木商です。幕末には大阪から伏見、京都へと通ずる高瀬川の木材の輸送権を独占しており、非常に繁盛しておりました。高瀬川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、伏見、大阪との連絡にも格好の地であった為、龍馬はここを海援隊京都本部にしたようです。酢屋嘉兵衛は龍馬の活動に大変理解を示し、その援助に力を注ぎました。
龍馬は『酢屋』の人々から「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋に住んでいたようです。
高瀬川一之舟入
高瀬川一之舟入
■坂本龍馬 中岡慎太郎遭難の地

坂本龍馬中岡慎太郎

慶応3年(1867年)11月15日 京都河原町蛸薬師の醤油商近江屋で龍馬は33歳の誕生日を迎えましたが、奇しくもこの日刺客に襲われ暗殺れることとなりました。
龍馬は風邪気味で近江屋に用意されていた隠れ部屋(裏手の土蔵)では、寒さがこたえると母屋二階で火鉢を抱え中岡慎太郎と語り合っていました。母屋には午後7時から午後8時半ごろまで、龍馬・慎太郎と岡本健三郎(土佐出身、龍馬のボディーガード的存在)、菊屋峰吉(京都土佐藩御用達の書店菊屋の長男)、藤吉の5名がいたと言われています。午後8時半ごろ、龍馬は峰吉少年に軍鶏(しゃも)を買いに行かせ、岡本健三郎も同時にその場を去ったことにより、龍馬と慎太郎の2人は熱く論議を始めたといいます。午後9時頃来客があり、藤吉がその来客の対応にでたところ「十津川郷士の者だが、才谷先生がご在宿か?」 と名刺を差出しました。このころ十津川には勤王の志士が多く住んでいたため、下男の藤吉は警戒することなく名札を受け取り、二階にいる龍馬へ取り次ごうと階段をのぼります。その瞬間、自称十津川郷士は藤吉を後袈裟で斬りつけたのです。龍馬は、その時の藤吉の悲鳴をふざけていると思い、「ほたえなっ」と土佐弁で叫んでしまいました。刺客(幕府の見廻組組頭佐々木唯三郎指揮の6人)は龍馬が二階にいる事を確信し、階段を駈けあがります。
不意討ちで龍馬がまず前頭部を斬られ(この傷が致命傷になりました)、別の刺客が慎太郎の後頭部を斬りつけたのが最初といわれています。その後、龍馬は床の間の刀に掴もうとしたところを、二の太刀が右肩から背骨までを襲い、刀を手に振り向いたと同時に三の太刀が頭上を襲いました。
かたや中岡慎太郎は刺客相手に短刀で戦いますが、全身数十カ所を斬られ、最後は腰に捨て太刀を浴びたといいます。 刺客が去ったあと、龍馬は慎太郎に息があることを確認し、ふたことみこと言葉を交わしますが、頭から血と脳漿が流れでているのを見て、「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」 と最後の言葉を発して前のめりにたおれたそうです。
慎太郎は、一時回復するかのように見えたということですが、二日後、飯を食べた後、眠るように逝ってしまいます。享年30歳。慎太郎は最期に『討たねばかくのごとく討たれる。諸君、奮励決起せよ』と言い、死ぬまでその主戦論を捨てませんでした。

その舞台となった近江屋は現在、京阪交通社になっていて、通りを行き交う人々がこの石碑を意識することはほとんどありません。人通りが多い所ですから写真を撮るのも大変です。


天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。 この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へおしあけた。

司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』、 完結のくだりより。

■坂本龍馬 中岡慎太郎の墓 京都東山
坂本龍馬中岡慎太郎石碑
坂本龍馬中岡慎太郎の墓
左:坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像が立っています。ふたりの目の前には京都市内が一望に見渡せる風景があります。
右:坂本龍馬と中岡慎太郎の墓。

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