
坂本龍馬は、慶応3年(1867)に海援隊を創設。いろは丸沈没事件では紀州藩に損害を賠償をさせます。また後藤象二郎とともに船中八策を策定し、大政奉還の実現に貢献しますが、その後まもなく、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されました。
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Last Updated: 3 September 2006
■酢屋 龍馬寓居跡 中京区河原町三条下ル
『酢屋』は初代酢屋嘉兵衛さんから現在十代目の酢屋嘉兵衛さんまで280年以上も続いている材木商です。幕末には大阪から伏見、京都へと通ずる高瀬川の木材の輸送権を独占しており、非常に繁盛しておりました。高瀬川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、伏見、大阪との連絡にも格好の地であった為、龍馬はここを海援隊京都本部にしたようです。主人の酢屋嘉兵衛は龍馬の活動をよく理解し、かなりの支援をしたようです。
龍馬は『酢屋』の人々から「才谷さん」と呼ばれ、二階の部屋に住んでいました。
■高瀬川一之船入 ※ 現地案内板より。
川の西方の堀割を一之船入という。高瀬川は慶長16年(1611)頃、角倉了以が開いた運河でここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を船入といった。角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運びいれるためこの川を開いたもので、このあたりを起点として鴨川の水をとり入れ鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛事には百数十艘が上下し、大阪などの物資を運びいれた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が立ち並んで賑わい、船入りはこの一之船入をはじめ数箇所に設けられた。
明治以後高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっている。一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。
京都市
慶応3年(1867年)11月15日 京都河原町蛸薬師の醤油商近江屋で龍馬は33歳の誕生日を迎えましたが、奇しくもこの日刺客に襲われ暗殺れることとなりました。
以下、司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』より引用しました。
この日、寒気がつよい。
竜馬はまわたの胴着に舶来綿の綿入れを着かさね、さらにそのうえに黒羽二重の羽織をひっかけて二階奥の間に出た。
二階には四間ある。奥八畳の間で中岡と対座した。
「熱で頭がくらくらする」
といいながら、中岡のはなしをきいた。宮川処置の相談がおわると、新政府の官制についての用談になった。
角力の藤吉は二つの部屋をへだてた表の間で楊枝けずりの内職をしている。
そのうち夜になったので藤吉は竜馬の部屋の行灯に灯を入れた。
そこへ例の岡本健三郎があそびにきて、両人のはなしをきこうとした。ほとんど同時に菊屋の峰吉少年が入ってきた。峰吉は中岡の使いで錦小路の薩摩藩邸にゆき、その返事をもらって帰ってきたのである。
「峰吉っつぁん、腹がへった」
と竜馬は峰吉をかえりみ、軍鶏を買ってこい、といった。
■坂本龍馬 中岡慎太郎遭難の地
以下、司馬遼太郎氏
『竜馬がゆく』より引用しました。
「ほたえなっ」
とどなった。土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。
この声で刺客たちは討つべき相手の所在を知った。
電光のようにかれらは走った。
奥の間にとびこむなり、一人は竜馬の前額部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。この初太刀が、竜馬の致命傷になった。
( - 中略 - )
竜馬は、ようやく崩れた。くずれつつ、
「清君、刀はないか」
と、叫んだ。清とは、中岡の変名石川清之助のことである。この場にいたってもなお中岡を変名でよぶ配慮をしたのは、竜馬の意識が明確であった証拠であろう。以上も以後も、すべて事件の翌々日に死んだ中岡の記憶による。
■坂本龍馬 中岡慎太郎の墓 京都東山
左:坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像が立っています。ふたりの目の前には京都市内が一望に見渡せる風景があります。
右:坂本龍馬と中岡慎太郎の墓。
天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へおしあけた。
司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』、
より。

