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Last Updated: 3 September 2006

慶応3年11月7日、懸案事項であった『いろは丸沈没事件』の賠償金が長崎で紀州藩より支払われました。しかしその後まもなく、龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されます。

京都 酢屋 坂本龍馬寓居之趾

『酢屋』は初代酢屋嘉兵衛さんから現在十代目の酢屋嘉兵衛さんまで280年以上も続いている材木商です。幕末には大阪から伏見、京都へと通ずる高瀬川の木材の輸送権を独占しており、非常に繁盛しておりました。高瀬川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、伏見、大阪との連絡にも格好の地であった為、龍馬はここを海援隊京都本部にしたようです。主人の酢屋嘉兵衛は龍馬の活動をよく理解し、かなりの支援をしたようです。
龍馬は『酢屋』の人々から「才谷さん」と呼ばれ、二階の部屋に住んでいました。

坂本龍馬寓居跡 酢屋

酢屋 龍馬寓居跡 中京区河原町三条下ル

坂本龍馬寓居跡

慶応3年(1867年)11月15日 京都河原町蛸薬師の醤油商近江屋で龍馬は33歳の誕生日を迎えましたが、奇しくもこの日刺客に襲われ暗殺されることとなりました。

以下、司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』より引用しました。

この日、寒気がつよい。
竜馬はまわたの胴着に舶来綿の綿入れを着かさね、さらにそのうえに黒羽二重の羽織をひっかけて二階奥の間に出た。
二階には四間ある。奥八畳の間で中岡と対座した。
「熱で頭がくらくらする」
といいながら、中岡のはなしをきいた。宮川処置の相談がおわると、新政府の官制についての用談になった。角力の藤吉は二つの部屋をへだてた表の間で楊枝けず りの内職をしている。そのうち夜になったので藤吉は竜馬の部屋の行灯に灯を入れた。
そこへ例の岡本健三郎があそびにきて、両人のはなしをきこうとした。ほとんど同時に菊屋の峰吉少年が入ってきた。峰吉は中岡の使いで錦小路の薩摩藩邸にゆき、その返事をもらって帰ってきたのである。
「峰吉っつぁん、腹がへった」
と竜馬は峰吉をかえりみ、軍鶏を買ってこい、といった。

京都 近江屋跡

坂本龍馬 中岡慎太郎

坂本龍馬 中岡慎太郎遭難の地

以下、司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』より引用しました。

「ほたえなっ」
とどなった。土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。この声で刺客たちは討つべき相手の所在を知った。電光のようにかれらは走った。奥の間にとびこむなり、一人は竜馬の前額部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。この初太刀が、竜馬の致命傷になった。

( - 中略 - )

竜馬は、ようやく崩れた。くずれつつ、
「清君、刀はないか」
と、叫んだ。清とは、中岡の変名石川清之助のことである。この場にいたってもなお中岡を変名でよぶ配慮をしたのは、竜馬の意識が明確であった証拠であろう。以上も以後も、すべて事件の翌々日に死んだ中岡の記憶による。

天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へおしあけた。

司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』より。

京都霊山護国神社

坂本龍馬 中岡慎太郎像

坂本龍馬 中岡慎太郎像

坂本龍馬 中岡慎太郎の墓

坂本龍馬 中岡慎太郎の墓

坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像が立っています。ふたりの目の前には京都市内が一望に見渡せる風景があります。

京都市内の展望
坂本龍馬・中岡慎太郎の墓付近からみた京都の眺望