『寺田屋』の中にはいってみましょう。

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Last Updated: 10 September 2006

寺田屋
寺田屋
寺田屋
寺田屋
2階の掛け軸です。この画は、女将お登勢が龍馬に奨めて、町の画家に描かせたものだそうです。円山公園の銅像はこの肖像画をもとに作られたとか。

弾痕

柱が凹んでいました。
■坂本龍馬襲撃事件
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、伏見奉行配下の捕吏が、宿泊していた坂本龍馬を暗殺しようと襲撃します。入浴中のおりょうが気づいて急を知らせ、三吉慎蔵は手槍で応戦し、龍馬はピストルで応戦しましたが右手指を負傷します。
その後、龍馬とお龍は西郷隆盛の斡旋により鹿児島に潜伏しますが、温泉療養を目的としたその旅 は、後に日本人初の新婚旅行といわれるようになりました。
寺田屋
寺田屋
おりょうが急を知らせるために駆け上がった裏階段と入浴していた風呂場
京都柳馬場三条下ルで青蓮院宮家の侍医楢崎将作の長女という説と、実父は西陣有職 織物匠井筒屋喜代門で子供の頃に楢崎将作の養女となったという説があるそうです。 貧困の生活にいるところを龍馬と出逢い、弟、妹たちを寺田屋のお登勢や、勝海舟に 託しました。薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴していたおりょうは 風呂から飛び出して裸のまま龍馬に急を告げ、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬 の危機を救うという意外に活発な女性でした。美人で教養の持ち主だったおりょう は、海援隊士らに姉さんと慕われたそうです。土佐藩大監察佐々木高行は日記には、 「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタ リ」とあります。ちょっとつかみどこのない女性だったのでしょうか?龍馬の死後、 三吉慎蔵のもとにいましたが、明治元年、龍馬の高知の実家に移りました。しかしそ の生活は一年ほどで、それからは京都に戻ってます。やがて西郷隆盛らを頼って東京 に出、明治8年に旧知の商人である西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗りました。 晩年は横須賀で暮らし、貧窮の中で明治39年に亡くなっています。享年66歳でし た。

寺田屋
寺田屋
「世の人はわれを何とも云はばいへ わがなすことは 我のみぞ知る」

龍馬はこどもの頃、土佐の城下では馬鹿にされることが多かったようで、その時期に詠んだ歌といわれています。龍馬の将来への意気込みがひしひしと感じとれますね。

私が住む福岡市には『寺田屋の二階』という居酒屋があります。結構いいお店ですよ。龍馬ファンは是非一度訪ねてみてください。

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