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Last Updated: 27 February 2010

文久2年(1862)夏、上海から戻った晋作はすぐさま討幕論を展開し、同年12月に井上聞多・久坂玄瑞らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちを実行します。翌文久3年(1863)には久坂玄瑞らと吉田松陰の遺骨(※松陰は安政6年(1859)に斬首されている)を小塚原から世田谷に改葬しました。過激すぎた彼は疎んじられ藩政から遠ざけられてしまいまい、『東行』と号して松本村にて隠棲してしまいます。(草庵)

高杉晋作草庵跡地顕彰碑

高杉晋作草庵跡地顕彰碑(萩市)

和暦年  (西暦)
高杉晋作年表 / 主な出来事
文久3年(1863) 6月
奇兵隊結成。
文久3年(1863) 8月
八月十八日政変、七卿西下。
元治元年(1864) 3月
脱藩の罪で野山獄に投獄。
元治元年(1864) 7月
蛤御門(禁門)の変、久坂玄瑞自刃。
元治元年(1864) 11月
野村望東尼の平尾山荘に潜伏。
元治元年(1864) 12月
長府功山寺で挙兵。

高杉晋作年表 文久3年〜元治元年


自由奔放な晋作を寛大な心で許してしまう長州藩主父子(そうせい候)、またこの時期のことを語った中岡慎太郎の言葉を以下『世に棲む日日』より引用しました。

もし、この当時の長州藩主が、土佐の山内容堂か、薩摩の島津久光だったとすれば、幕末の長州藩はまったく違ったものになっていたはずであり、従って日本歴史もちがったものになっていたであろう。山内容堂は、べつに大名にならなくても筆で飯が食えるほどの詩人であり、学問もあった。さらには独裁者的性格がつよく、藩を自分の政略で統制しようとし、それから外れる者を容赦なく刑殺した。晋作などは土佐藩にうまれていればとっくに刑殺されていたであろう。

「長州はこののち天下の権をにぎるであろう。それにつぐものは、薩州である。なぜならば、戦争をしたからである。戦争をしたことによって士気が大いにふるい、藩の士も民も一ツ心になった。かれらはすでに戦国にある思いをしている。この勢いをもってあたれば、天下の大事はかならず成る」
という意味のもので、中岡は下関において連敗した長州藩の攘夷戦争の価値を大きく評価し、長州藩が時勢のなかにおどり出るのはこの戦争の結果だとしている。

壇の浦砲台

壇の浦砲台

文久3年(1863)5月10日、朝廷の勅命を受け幕府が返答した攘夷の実行期限に、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を実行しますが、逆に報復にあい惨敗します。この時期、長州藩の政庁は萩から山口に移されており、ここから萩の草庵に隠棲している高杉晋作のもとに使者が来て出頭を命じました。下関防衛の司令官になれというのです。晋作は下関に向かいながら、新たな軍隊創設の必要性を悟りますが軍資金がありません。そこで下関の豪商白石正一郎を頼ることにします。

関門大橋
関門海峡

関門大橋 本州側壇ノ浦(SA)より撮影

この海峡で義経が平家の艦隊を全滅させ、長州藩が四カ国艦隊と戦い、幕長海戦のときには竜馬が高杉の艦隊に協力してユニオン号をもって幕府艦隊を牽制した。

司馬遼太郎氏の『歴史を紀行する』より。

晋作の生涯を思いながら、この馬関の海峡を見た。周防灘と響灘の二つの潮がぶつかり合う潮流の激しさは当時のままであろう。

『街道をゆくシリーズ  甲州街道、長州路』に、白石正一郎について以下の記述があります。
幕末、長州志士の活動資金は、ほとんどこの白石正一郎が出したといっていい。諸藩の脱藩の士を泊めて小遣いをあたえたのも白石であった。坂本や中岡をはじめ、幕末の有名無名の士でこの白石の厄介にならなかった者はないといっていい。
白石は、伊藤助太夫と同様、下関の海運業者であった。その富はこの港市第一といわれていたが、維新前後、この革命道楽のためにほとんど家産を蕩尽した。
とくにかれの家産をかたむけたのは、高杉晋作が奇兵隊をつくったとき、その資金を白石に出させたことが大きいであろう。白石は高杉に惚れこんでいたし、白石自身、国学者であり攘夷主義者であったから、むしろすすんで金蔵をかけて金銀を出した。とめどなく金銀が流れ出た。
高杉はこの町人を長州藩の回天事業における最大の功労者のひとりだとみていたが、白石の不幸は、維新前に高杉が死んだことであった。
生き残りの長州志士は東京へゆき、どうみても三流の人物でしかないという連中まで廟堂に列したが、落魄した白石をかえりみる者がなかった。白石のほうも、いまさら勘定書を出すような人物ではなかったらしい。

奇兵隊結成の地

奇兵隊結成の地(白石正一郎邸跡)

『聞いておそろし 見ていやらしい 添うてうれしい奇兵隊』 と歌われました。

赤間神宮

奇兵隊の本拠地となった阿弥陀寺(赤間神宮)、明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃されています。

赤間神宮

阿弥陀寺(赤間神宮)

七卿史跡

文久3年(1863年)8月18日の政変により三条実美卿等七卿は京都妙法院をあとに長州へくだりました。その後下関の海防視察の途中に、この桜山招魂場に参拝したことを記念し、ここ桜山神社に石碑がたてられています。

七卿史跡

七卿史跡

元治元年 功山寺決起まで

伊藤俊輔、井上聞多ら長州藩の5名が秘密留学生として英国に到着したのは文久3年(1863)、伊藤俊輔、井上聞多の2名が帰国(横浜)したのは翌元治元年。英国の先進文明を目の当たりにした井上聞多は一転し、死を賭して開国論を唱えはじめる。

文久4年(1864)1月、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得に失敗、脱藩して京都へ潜伏。
2月には萩へ帰郷、脱藩の罪で野山獄に投獄。同年元治元年6月(文久4年は2月に改元)には野山獄を出所するも、自宅座敷牢での謹慎処分。

7月、長州藩は蛤御門の変(禁門の変)で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する。

8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台を占拠。晋作は赦免されて和平交渉の藩代表となる。伊藤俊輔・井上聞多は通訳。第一回交渉後、長州の過激分子に命を狙われることとなり、晋作と俊輔は一時姿をくらましたが、最終交渉には復帰して交渉はまとまった。長州藩は俗論派(佐幕派)と正義派(改革派)の二大政党であり、椋梨藤太(むくなしとうた)が俗論派の首領、周布政之助が正義派の首領で、この時期正義派が与党で俗論派が野党であったが、俗論派が台頭し始める。

9月、井上聞多は第1次長州征伐では武備恭順(表向きは恭順を装い、裏では軍備をさかんにし、いつでも幕府側と決戦できるように準備しておく)を主張したため、袖解橋付近で俗論派に襲われ瀕死の重傷を負うが、所郁太郎の手術を受け一命をとりとめる。井上聞多が襲撃された同じ日に、周布政之助は割腹自殺を遂げる。この事件は正義派に大きなダメージとなり、俗論派が藩政権を奪い始める。晋作は福岡へ逃れ、野村望東尼の平尾山荘に匿われる。俊輔も聞多のすすめで下関に逃れるが、上士階級で占められてている俗論派では、俊輔のような身分の低いものはもともと眼中になく無事だった。

蛤御門の変、4カ国連合艦隊との戦いに敗れた長州藩は世間の声望が一挙に失墜しており、九州諸藩との勤王連合がかなわなかった晋作は大いに失望する。晋作は長州藩は長州人によって建てなおすしかないと決断、11月の末に関門海峡をわたり俗論派の支配で既に敵地となった下関へ帰還した。