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Last Updated: 20 August 2006

文久元年(1861)、高杉晋作に御番手(おばんて)として江戸行きの藩命がくだされます。御番手とはペリー来航以来幕府が諸藩に命じた江戸湾警備の警備員のことです。この当時の江戸長州屋敷は過激書生の巣窟で、桂小五郎・久坂玄瑞・井上聞多・伊藤博文・入江九一らがおり、過激な攘夷論を展開していました。同じ時期に長州藩の公式代表とも言える長井雅楽(ながいうた)が「航海遠略策」で開国論を展開したため、江戸に合流した高杉晋作は久坂玄瑞らと長井を斬ることを決意します。これを知った周布政之助が、翌年の文久2年に予定されている上海への幕府派遣施設長州藩代表として高杉晋作を人選し、晋作らによる長井殺しを回避させました。

文久2年(1862)幕府貿易船『千歳丸』が上海に到着。同船はイギリス船を買い上げたもので船長以下イギリス人によって運航されました。晋作は上海の実情把握のため藩命により派遣されますが、この時薩摩藩の五代友厚らも参加していました。20歳のとき 江戸から信州を回って旅をし、佐久間象山に会って「外国を見なければならない」と教えられたことが、今かなえられたのです。晋作は植民地化された上海の悲惨な現状を目のあたりにし、国家統一のため武力により幕府を倒すことを決意します。このとき短銃二丁をみやげに購入し、帰国後その一丁(スミス&ウエッソン第2型 32口径)を坂本龍馬に与えたことはよく知られています。

晋作が見たであろう旧租界地の外灘(ワイタン)や、新大橋:外白渡橋、孔子廟などを紹介いたします。外灘は、北の外白渡橋から南の金陵東路まで1.5Kmあり、黄浦江(コウホコウ)沿いに延びる通りでバンドとも呼ばれます。1842年、清朝がアヘン戦争に敗れ南京条約によってイギリス人がここに商館や住宅を建設したのが始まりで、その後外灘は金融とビジネスの中心地となりました。

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黄浦江船上から見た外灘地区

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黄浦江船上から見た外灘地区

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黄浦江船上から見た外灘地区

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黄浦江船上から見た外灘地区

以下『世に棲む日日』より引用しました。

かれは西洋文明について最初、黄浦江(こうほこう)の江上から上海の都市景観をみたときこそ肝をつぶしたが、そのおどろきはすぐ消えた。正体はなんだろうとおもった。国にいるとき、蒸気汽罐とそのエンジンの原理(実物はまだ見なかったが)を頭のなかでは理解してしまっていた。そのあたまで上海を見たとき、西洋文明の正体というのは道具である、とおもった。道具をふんだんに作りだして、それをいろいろ組みあわせて巨力を生みだすというだけのことだと見ぬいた。

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外灘と浦東は海中トンネルで結ばれています

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黄浦江船上からの浦東地区、東方明珠塔(テレビ塔)

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黄浦江船上から見た橋

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黄浦江船上から見た橋

以下『世に棲む日日』より引用しました。

(幕府などは、屁のようなものかもしれん)
という実感がつよくなった。国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまって押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感で思った。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋行」はそういう意味で奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。
「どうだ、やはり攘夷でゆくかね」
と、佐賀の中牟田倉之助が、江岸の景観を見ながら晋作に笑いかけたとき、晋作は例の上から鳴るような声で答えた。
「攘夷。あくまでも攘夷だ」
といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。開国は、上海を見ればもはや常識であった。しかし常識からは革命の異常エネルギーはおこってこないのである。

孔子廟(文廟)は1748年に創設された最高教育機関ですが1854年に清軍に焼き払われ、現在の場所に再建されたものだそうです。南京路の夜景はすばらしい。

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